もし神の子なら
私たち人間は、「神だったら、こうするべき」という自分の考えによって、神のやり方を裁くことがあります。それは単純に、神のやり方や知恵が私たちのやり方や知恵をはるかに超えているのに、自分を神と同等か神の上の立場に置こうとしているだけなのですが。(イザヤ29:16; 55:8-9)
「神だったら、こうするべき」と言う時、それはそもそも、その人には神を信じる気持ちなどないからという場合がよくあります。イエス・キリストも、十字架にかけられた際に、自分を神の子と信じない人たちから、「もし神の子なら、こうしろ」とののしられ、あざけられました。
このようにイエスをあざけったのは、通りかかった人たち(世間一般の人)、祭司長・律法学者・長老たち(宗教や社会の指導者)、そして、一緒に十字架にかかった強盗たち(犯罪人)です。要するに、誰もがイエスをののしり、あざけったのです。
一緒に十字架につけられた強盗までそうしたというのは、自分のことを棚に上げて他人を非難するという人間の悲しい性質を表しているのでしょう。もし私もその場にいたら、同じようにイエスをあざけっていたのだろうかと、自分の心を探らせられる気持ちがします。
「もし神の子なら」十字架から降りられるだろう、「もし神の子なら」神が助けてくださるはずだ。・・まるで、荒野の誘惑で悪魔がイエスに言ったことのようです。
悪魔はもちろん、イエスが神の子であることを知っていましたが、なんとか神の計画を邪魔しようとして、このようなことを言っていました。
イエスは、そうしたければ悪魔の言う通りにすることもできたでしょう。でも、それは神の望んでおられたことではなかったので、そうしませんでした。「できる・できない」(能力)と「する・しない」(選択)とは、まったく別のことです。
イエスが十字架から降りて自分を救わなかったのも、祭司長たちが主張するように「他人を救ったが、自分自身を救うことができない」からではありません。
イエスは、自分自身を救うことはできたけれど、そうせず、神の子であるからこそ、神の計画に従って、私たちを救うために自らが犠牲になるという、他の誰にもできないことを選択したのです。ここに、神とイエスの愛があり、愛の力の強さが見られます。
イエスの愛と犠牲はすべての人のためであり、それには、イエスをあざける人たちも含まれていました。一緒に十字架につけられた強盗の一人は悪口を言い続けましたが、もう一人は悔い改め、真の王としてのイエスを信じたので、救いを約束されたのです。(ルカ23:39-43)
神がそのひとり子イエスを通して与えてくださった救いは、誰でも信じる人のためにあります。「もし神の子なら、十字架の死から逃れられるはずだ」ではなく、「神の子だからこそ、私たちを救うために自らが犠牲になるという、他の誰にもできないことをしてくださった」と信じるすべての人のために。