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神の作品

皆さんは、陶芸をしたことがあるでしょうか。

私は一度だけ、陶芸体験でコーヒーカップを作ったことがあるのですが、ひどい出来栄えで、鑑賞にも実用にも堪えないものでした。

陶芸は私向きではないようですが、素敵な作品を生み出せる人にとっては、とても楽しいことでしょうね。

私たちは神の作品

聖書には、「神の作品」という言葉が出てきます。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
(エペソ2:10 新改訳2017)

「作品」と訳された言葉「ポイエマ」は、文学、音楽、陶器、家具や建築物など、何でも制作されたもののことを言います。(英語の「ポエム=詩」の語源ともなっています。)

人間は誰もが神に作られていますが、この節の直前には救いのことが書かれているので、ここでは特に救われて「新しく造られた」ことを言っているようです。(エペソ2:8-92コリント5:17

では、神の作品であるということには、どんな意味があるのか考えてみましょう。

神の作品であるという意味

神によって作られた

私たちは、神が作られた作品であり、他の誰かの働きによって、あるいは自分自身の働きによって生み出されたのではありません。

陶器を生み出すのは陶器師であり、私たちに求められているのは、委ねた粘土となって、神の計画どおりの陶器に仕上げていただくことです。

主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
(イザヤ64:8 新改訳第3版)

目的を持って作られた

私たちは、「良い行いをするために・・造られた」とあります。

直前(エペソ2:8-9)に書かれているように、この「良い行い」は救いの条件ではありません。

むしろ、救いの結果であり、救われた喜びや感謝の思いから自然と生まれるものです。

それは道徳的に立派な自分になるための努力ではなく、神や他の人への愛の心で行われるものなのです。

また、神が「あらかじめ備えて」くださったこの「良い行い」は、神が私たちのために用意された計画に基づいており、それは一人一人異なります。

陶器で言えば、普段使いのものも飾っておくものもあり、用途に応じて大きいものも小さいものも、細長いものも平たいものもあります。

それはちょうど、私たちの体にさまざまな器官があり、それぞれがその目的を果たしていて、そのすべてが必要とされているのと同様です。

体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこで嗅ぎますか。そこで神は、御心のままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
(1コリント12:14,16-18 聖書協会共同訳)

ですから、自分の個性を生かし、互いに助け合って、それぞれが良い行いを成せますように。

愛情を込めて作られた

作品には、製作者の愛情が込められています。

私たちは大量生産品ではなく、神が一つ一つ特別の思いを持って作られた特別に愛しい作品です。

一人一人が異なって作られているので、比べ合ってしまうこともあり、「これは嫌だなあ」と思うところもあるかもしれませんが、それは決して失敗ではなく、そこにもまた神の計画が隠されています。

一人一人が、愛情込めて作られた神のお気に入りだということを、覚えていましょう。

価値あるものに作られた

私が陶芸体験で作ったあのコーヒーカップとは違い、私たちは神の手によって作られた傑作であり、非常に価値の高いものです。

物の価値は、まず製作者によって決められ、最終的には所有者が判断するものです。

私たちは神によって作られ、また、神のものであるので、その神が私たちの価値を定める方です。

あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。・・「あなたはわたしのもの。・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ43:1,4 新改訳第3版)

神に愛された価値ある作品として、神から与えられた個性や持ち味を生かし、それぞれの役割を果たせますように。

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(『人と比べること(2)』も、どうぞお読みください。)

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