神の作品
皆さんは、陶芸をしたことがあるでしょうか。
私は一度だけ、陶芸体験でコーヒーカップを作ったことがあるのですが、ひどい出来栄えで、鑑賞にも実用にも堪えないものでした。
陶芸は私向きではないようですが、素敵な作品を生み出せる人にとっては、とても楽しいことでしょうね。
私たちは神の作品
聖書には、「神の作品」という言葉が出てきます。
「作品」と訳された言葉「ポイエマ」は、文学、音楽、陶器、家具や建築物など、何でも制作されたもののことを言います。(英語の「ポエム=詩」の語源ともなっています。)
人間は誰もが神に作られていますが、この節の直前には救いのことが書かれているので、ここでは特に救われて「新しく造られた」ことを言っているようです。(エペソ2:8-9、2コリント5:17)
では、神の作品であるということには、どんな意味があるのか考えてみましょう。
神の作品であるという意味
神によって作られた
私たちは、神が作られた作品であり、他の誰かの働きによって、あるいは自分自身の働きによって生み出されたのではありません。
陶器を生み出すのは陶器師であり、私たちに求められているのは、委ねた粘土となって、神の計画どおりの陶器に仕上げていただくことです。
目的を持って作られた
私たちは、「良い行いをするために・・造られた」とあります。
直前(エペソ2:8-9)に書かれているように、この「良い行い」は救いの条件ではありません。
むしろ、救いの結果であり、救われた喜びや感謝の思いから自然と生まれるものです。
それは道徳的に立派な自分になるための努力ではなく、神や他の人への愛の心で行われるものなのです。
また、神が「あらかじめ備えて」くださったこの「良い行い」は、神が私たちのために用意された計画に基づいており、それは一人一人異なります。
陶器で言えば、普段使いのものも飾っておくものもあり、用途に応じて大きいものも小さいものも、細長いものも平たいものもあります。
それはちょうど、私たちの体にさまざまな器官があり、それぞれがその目的を果たしていて、そのすべてが必要とされているのと同様です。
ですから、自分の個性を生かし、互いに助け合って、それぞれが良い行いを成せますように。
愛情を込めて作られた
作品には、製作者の愛情が込められています。
私たちは大量生産品ではなく、神が一つ一つ特別の思いを持って作られた特別に愛しい作品です。
一人一人が異なって作られているので、比べ合ってしまうこともあり、「これは嫌だなあ」と思うところもあるかもしれませんが、それは決して失敗ではなく、そこにもまた神の計画が隠されています。
一人一人が、愛情込めて作られた神のお気に入りだということを、覚えていましょう。
価値あるものに作られた
私が陶芸体験で作ったあのコーヒーカップとは違い、私たちは神の手によって作られた傑作であり、非常に価値の高いものです。
物の価値は、まず製作者によって決められ、最終的には所有者が判断するものです。
私たちは神によって作られ、また、神のものであるので、その神が私たちの価値を定める方です。
神に愛された価値ある作品として、神から与えられた個性や持ち味を生かし、それぞれの役割を果たせますように。
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(『人と比べること(2)』も、どうぞお読みください。)