神の身体と神の愛(顔と目)
私たちが誰かを愛する時(恋人であれ、家族や友人であれ)、それを行動や仕草で表現しますね。
神には肉体がありませんが、私たちへの愛や配慮を私たちに分かりやすく説明するために、聖書は、神が人間と同じような身体の部位を持っておられるかのように語っています。
その幾つかを紹介しましょう。
神の顔
これは、「アロンの祝祷」と呼ばれる祝福の祈りですが、アロンが考え出したわけではなく、神が「こう祈りなさい」と与えられたものです。
つまり、私たちに対する神の思いが詰まった文章なのです。
「平安」と訳された「シャーローム」という言葉は、精神的にも物質的にも、また社会的にも個人的にも、健全で満たされた状態を意味します。
心のことなら平安や安心、他者との関係なら平和、心身のことなら健康、また他にも安全や繁栄などを指しており、いわば神からの総合的な祝福を表す言葉です。
神が「祝福を与えたくてたまらない」と、顔を輝かせて微笑み、私たちを優しく見つめている姿が思い浮かびます。
そんな神の目には、私たちがどのように映るのでしょうか。
神の目
私たちは、自分の存在価値を見失うことがあります。
誰かに認められようとして、背伸びをし、頑張りすぎ、自分を偽り、苦しめることさえあります。
でも、神が私たちに顔を向ける時に見るのは、ありのままの私たちであり、しかも、その目には、高価で尊い存在として映ります。
なぜそれほど高価で尊いかというと、「わたしたちは神の作品」(エペソ2:10)であり、神によって創造され、形造られた傑作だからです。
人間の価値を決めるのは、能力や財産、業績などではなく、神によって創造されたという事実なのです。
これは、ダビデが敵に囲まれた時の祈りです。
誰かから指で体を突かれるのは、不快なものですが、もし目を突かれそうになったら、必死にそれを止めることでしょう。
体の中でも特にデリケートで、かけがえのない大切な器官だからです。
神はご自分の瞳のように私たちを大切にし、愛してくださっており、ダビデはそれを実感していたので、このように祈ったのでしょう。
その数百年前、荒野での放浪生活が終わり、約束の地に入ろうとしているイスラエルの民にモーセが語ったことの中にも、こんな言葉があります。
子どもへの溺愛ぶりを「目に入れても痛くない」と表現することがありますが、目の瞳そのもののように大切な存在だと言われるのも、また嬉しいものです。