神の身体と神の愛(手と腕)
神の手と腕
聖書には、神の手や腕についても、数多く書かれています。
それはおそらく、私たち人間が手を使って多くのことをするからであり、そのように神も常に私たちのために多くのことをしてくださっているからでしょう。
神がその手を用いて最初にされた作業とは、天地創造であり、その中には私たちも含まれます。
私たちは皆、独特の良さを備えた、神の手による傑作であり、神はえこひいきせずに、すべての人をこよなく愛してくださっています。
そして、私たちを素晴らしい作品としてこの世に送った後は、私たちを支え、守り、導くために、その手を用いられます。
その点に関しては数多くの聖句がありますが、私のお気に入りは、これです。
私たちが倒れたり沈んだりする時、神は疲れることのない永遠の腕でしっかりと支えてくださいます。
アンソニー・ショウォルターという音楽家は、かつての教え子二人から、それぞれの妻が亡くなったという手紙を受け取った時、この聖句を思い出して、『主の御手に頼る日は』(聖歌503 新聖歌315)という賛美歌を書きました。
どん底まで沈みそうになっている教え子たちが、神の腕によって支えられるようにとの祈りが込められているように思えます。
神の力強い腕とは対象的に、その指先は非常に優しく私たちの涙を拭われます。
これは、将来訪れる「新しいエルサレム」(2節)でのことですが、神は今も、私たちが神を仰ぎ見るなら、涙を拭ってくださいます。
この新しいエルサレムも、古代から存在するエルサレム(旧約聖書での別名はシオン)も、町の名前であるとともに、そこに住む神の民を指すことがあります。
たなごころは、漢字では「掌」と書き、手のひらのことです。
日本には「掌の玉」という言葉があり、それは手の中の宝玉のように大切な、愛する子どもや妻のたとえとして用いられています。
しかしこの聖句に描かれているのは、宝玉以上のものであり、神の手に彫り刻まれた私たちの姿です。
どこかに置き忘れられることも、消えることもなく、手を開く度に神の目に映る愛しい存在が私たちだと言うのです。
しかも、原典を読むと、これが片手ではなく両手のひらであることが分かります。
私たちの存在は、神の両手に永遠に刻まれて、しっかりと握りしめられ、守られています。
その神の愛から私たちを引き離せるものは、何もありません。
神の愛を疑うことがあるなら、あなたの姿が彫り刻まれた手のひらを見て神が微笑んでいるところを、思い浮かべてみてください。
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