共に苦しむ神
福音書にはイエスが十字架上で語った言葉が7つ記録されていますが、私がクリスチャンになりたての頃、特に心に響いたものがこれでした。
イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)
イエスは私たちの罪をすべて身に負い、罪びととして死なれたのですが、処刑された体の苦しみとともに、神に捨てられたという心の苦しみも味わいました。
私たちも苦しみの極みにある時に、「どうして」と感じるし、いくら祈っても答えが出ないことはよくあります。
そんな「どうして」を、そんな絶望感を、イエスは理解し、共有してくださるのです。
この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。(ヘブル4:15)
「思いやる」と訳されているのは英語の「シンパシー(同情、思いやり)」の語源になった言葉で、その文字通りの意味は「共に苦しむ」です。
そして、共に苦しむというイエスの性質は、父なる神の性質でもあり、イエスが十字架上で苦しんでおられた時、神もまた共に苦しんでおられたに違いありません。
彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。(イザヤ63:9 聖書協会共同訳)
冒頭の言葉を含め、十字架上での出来事の多くが詩篇22篇に預言されています。
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。(詩篇22:1)
作者のダビデは、たとえ目には見えなくても、神が自分の苦しみを分かっていてくださると確信し、こう結論づけています。
主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれた・・。(詩篇22:24)
私たちの苦しみも悩みも、心や体の痛みも、数々の疑問も、神はそれらを無視することなく、ちゃんと耳を傾け、私たちを思いやってくださるのです。
神が私たちのすぐ側にいて、共に苦しんでくださっている時に、私たちの心を神にあずけることができますように。