とりなしの祈り
祈りの大切な側面の一つに「とりなし(執り成し)」があります。
それは、神と他の人との間を取り持つという意味で、簡単に言えば、他の人のために祈ること、つまり、その人の罪や問題、病気、苦しみなどについて、代わりに神に嘆願することです。
とりなしの祈りはその人への愛のあらわれであり、第一の「とりなし手」であるイエスのようになることでもあります。
「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:34 口語訳)
ある時、神はイスラエルの状態を見て、「とりなす者がいないことに啞然とされ」ました。(イザヤ59:16 新改訳2017)
神は、それをどれほど悲しまれたことでしょうか。
預言者サムエルは、自分がとりなしをしないなら、それは罪であると言いました。
「あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」(1サムエル12:23 新共同訳)
そして、パウロもこのように勧めています。
「まず第一に勧める。すべての人のために・・願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」(1テモテ2:1 口語訳)
「すべての人」ですから、家族や友人だけではなく、教会や伝道者、国の指導者、また誰でも祈りを必要とする人たちのために祈りなさいということです。
友人・知人であれ、ニュースで耳にした人のことであれ、何でも気に掛かることがあれば、その人のために祈ってみませんか。
「でも、祈る時間が・・」と思うかもしれませんが、祈りの時間を作ることは、そう難しくありません。
私の場合、祈りに集中する時間以外にも、朝晩に布団の中で祈ったり、浴槽に浸かりながら、また散歩しながら祈ったりもします。
そのように、ちょっとした時間を使って祈ることから初めてはいかがでしょうか。
私たちがサムエルやパウロ、またイエスの例に倣って、良い「とりなし手」となれますように。