友だちについて考える
昨日、誕生日を迎えた友人がおり、特別な人の誕生日は自分にとっても特別な日だなと思いました。神がその人を通して私の人生にもたらしてくださった祝福を感謝すべき日ですから。そして、聖書を読みながら、友だちというものについていろいろと考えていました。
聖書には、友人関係について多く記されており、中でも有名なのは、この言葉でしょう。
クリスチャンになってからの人生を振り返ってみると、私が何らかの形で「倒れた」時には、友だちが必ずそばにいて、私を起き上がらせてくれたし、倒れないように支えてくれたことも多々あります。
その助けや支えにはさまざまな形がありますが、私にとって、何らかの病気や試練の時などは、祈りによって支えられていると知ることが大きな慰めとなってきました。私もまた、友人たちのために、日々祈るようにしています。
聖書の中でも、特に箴言には、友情についての言葉がたくさん見つかります。
この聖句は、こんな訳し方もできます。「友はどのような時でも愛してくれる。そして、苦難の時には兄弟となってくれる。」 そのような友だちは、苦難の時にはさらに関係が深まり、兄弟のような頼れる存在となるということです。
どちらにしても、友だちと良い関係を持つには、愛をもって接することが大切ですね。そして、その愛は、ただ優しいだけではなく、相手の過ちを指摘するという形で表されることもあります。
私たちのためを思い、愛の心で指摘してくれる友人を大切にしたいものです。
箴言には、どんな人と友だちにならない方が良いかという助言もあります。
仲良くしている相手からは、良くも悪くも影響を受けるものなので、自分にとって良い影響となる人を友だちに選ぶのは大切ですね。
一方、イエスは、真の友についてこのように語られました。
その後、イエスは弟子たちや私たちのために十字架で命を捨てることによって、私たちに魂の救いを与え、友である私たちをそれほども愛しておられることを証明されました。
もちろん、今、イエスをこの目で見ることはできませんが、そんなことは関係ないほど、イエスは私たちに喜びも慰めも豊かに与えてくださる、素晴らしい友だちです。イエスの直弟子であるペテロは、イエスに会ったことのない弟子たちに、こう書き送っています。
こうやって、昨日は友だちについて考えているうちに、何かあれば助け合える友だちがおり、さらに、四六時中そばで見守ってくださる「いつくしみ深き友なるイエス」がいることは、何と素晴らしく心安らぐことなのだろうと、幸せな気分になったのでした。