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友だちについて考える

昨日、誕生日を迎えた友人がおり、特別な人の誕生日は自分にとっても特別な日だなと思いました。神がその人を通して私の人生にもたらしてくださった祝福を感謝すべき日ですから。そして、聖書を読みながら、友だちというものについていろいろと考えていました。

聖書には、友人関係について多く記されており、中でも有名なのは、この言葉でしょう。

ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。

(伝道の書4:9-10)

クリスチャンになってからの人生を振り返ってみると、私が何らかの形で「倒れた」時には、友だちが必ずそばにいて、私を起き上がらせてくれたし、倒れないように支えてくれたことも多々あります。

その助けや支えにはさまざまな形がありますが、私にとって、何らかの病気や試練の時などは、祈りによって支えられていると知ることが大きな慰めとなってきました。私もまた、友人たちのために、日々祈るようにしています。

聖書の中でも、特に箴言には、友情についての言葉がたくさん見つかります。

友はどのような時でも愛してくれる。兄弟は苦難の時のために生まれる。

(箴言17:17 聖書協会共同訳)

この聖句は、こんな訳し方もできます。「友はどのような時でも愛してくれる。そして、苦難の時には兄弟となってくれる。」 そのような友だちは、苦難の時にはさらに関係が深まり、兄弟のような頼れる存在となるということです。

どちらにしても、友だちと良い関係を持つには、愛をもって接することが大切ですね。そして、その愛は、ただ優しいだけではなく、相手の過ちを指摘するという形で表されることもあります。

あからさまに責めるのは、ひそかに愛するより良い。愛する者が傷つけるのは誠実による。憎む者は多くの口づけでもてなす。

(箴言27:5-6 新改訳2017)

私たちのためを思い、愛の心で指摘してくれる友人を大切にしたいものです。

箴言には、どんな人と友だちにならない方が良いかという助言もあります。

秘密を漏らす者は中傷して歩く。軽々しく唇を開く者とは交わるな。

(箴言20:19 聖書協会共同訳)

怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。

(箴言22:24-25)

仲良くしている相手からは、良くも悪くも影響を受けるものなので、自分にとって良い影響となる人を友だちに選ぶのは大切ですね。

思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。

(1コリント15:33 新共同訳)

一方、イエスは、真の友についてこのように語られました。

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

(ヨハネ15:12-14)

その後、イエスは弟子たちや私たちのために十字架で命を捨てることによって、私たちに魂の救いを与え、友である私たちをそれほども愛しておられることを証明されました。

もちろん、今、イエスをこの目で見ることはできませんが、そんなことは関係ないほど、イエスは私たちに喜びも慰めも豊かに与えてくださる、素晴らしい友だちです。イエスの直弟子であるペテロは、イエスに会ったことのない弟子たちに、こう書き送っています。

あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

(1ペテロ1:8-9)

こうやって、昨日は友だちについて考えているうちに、何かあれば助け合える友だちがおり、さらに、四六時中そばで見守ってくださる「いつくしみ深き友なるイエス」がいることは、何と素晴らしく心安らぐことなのだろうと、幸せな気分になったのでした。




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