「慰めの子」と呼ばれた人
物事がうまく行っていない時や失敗した時、そばで励まし、慰めてくれる人がいたら、どれほど心強いことでしょう。そんな慰めと励ましに満ちた人、「慰めの子」と呼ばれた人のことが、聖書に記されています。
「慰めの子」バルナバ
その人の本名はヨセフですが、使徒たちからバルナバ(慰めの子)というニックネームを付けられ、普段からその名前で呼ばれていました。(使徒4:36)
慰めと訳されているギリシャ語の言葉(パラクレーシス)は、助けを必要とする人のそばに行って、慰め、励まし、勧めることを意味しており、それが神から彼に与えられた賜物だったようです。
慰めや励ましは、さほど目立たない賜物かもしれません。しかし、バルナバがその賜物を活かしたことは、キリスト教が世界に広まる上で大きな役割を果たしました。
サウロに対して
クリスチャンを迫害していたユダヤ人サウロは、ある日、復活後のイエス・キリストと出会ったことがきっかけとなり、彼自身が熱心なクリスチャンとなって、イエスのことを伝え始めました。
すると、裏切り者として、周りのユダヤ人から殺されそうになったので、エルサレムまで逃げました。しかし、そこの人たちは、サウロが本当にクリスチャンになったと信じてくれなかったのです。少し前までサウロから迫害されていた人たちからすれば、それは彼らを捕らえるための罠に違いないと思えたことでしょう。
こうしてサウロは、誰からも見捨てられた存在となりました。しかし、バルナバはサウロを信仰の友として受け入れたのです。イエスがサウロを通して働いておられると信じ、彼を使徒たちに紹介してくれたので、サウロは使徒たちの仲間に加わることができました。(使徒9:26-28)
その後も、バルナバは、アンテオケの信者たちの指導を任された時、サウロに助けを求めて、共に宣教活動を行いました。(使徒11:19-26)
このバルナバの行為が、サウロにとってどれほど励ましとなり、慰めとなったかは、容易に想像がつきます。
もし、バルナバがサウロを信頼して、この2度の大きなチャンスを与えていなかったなら、後にパウロと呼ばれるようになったサウロは、あれほど素晴らしい活躍ができず、新約聖書の大きな部分を占める手紙も書かれることがなかったかもしれません。
マルコに対して
その後、パウロとバルナバは、バルナバのいとこでマルコと呼ばれたヨハネを連れて、宣教旅行に出かけました。しかし、何らかの理由により、マルコは途中で離脱してしまいます。
そして、2回目の宣教旅行に向かう際、バルナバはマルコを連れて行くよう提案したのですが、パウロはマルコのことを許せなかったようで、猛反対したため、バルナバはマルコを連れて、パウロとは別の地域での宣教に出かけていきました。(使徒15:36-40)
もしかすると、マルコは、前回のことで申し訳なく感じ、自分が失敗者のように思っていたかもしれません。しかし、バルナバは、まだ若い弟子であるマルコを見捨てずに、もう一度チャンスを与え、育てて行きたかったのでしょう。
マルコはそんなバルナバの信頼に応えて成長し、やがてパウロからも認められるようになりました。以前はパウロの「助手」であったのが、「同労者」と呼ばれるようになり、「わたしの務のために役に立つ」大切な存在とまでなったのです。(使徒13:4-5、ピレモン1:24、2テモテ4:11)
さらに、マルコは福音書の著者ともされています。もしバルナバがマルコの可能性を信じていなかったなら、マルコが落胆してあきらめていたなら、それは世界にとってどれほどの損失となっていたことでしょう。
私たちも「慰めの子」になれる
バルナバは普通の人であり、私たちと同じように不完全で、間違いも犯しました。でも、神の慰めと励ましの器となったことで、大きな貢献ができたのです。
パウロは、私たちの神を「慰めに満ちたる神」と呼び、私たちもその神から受けた慰めをもって、他の人たちを慰めることができると書いています。
バルナバもきっと、自分自身が神からの慰めと励ましを感じていたからこそ、他の人たちを励まし、彼らがその可能性を示すチャンスを与えることができたのでしょう。
この世界は痛みと苦しみで満ちていて、多くの慰めと励ましを必要としています。私たちは、パウロやマルコのように世界に注目されるような偉大な働きができなかったとしても、バルナバのように神からの温かい慰めと励ましを誰かに届けることによって、この世界をもう少し生きやすい場所にできるかもしれません。
バルナバの手本に従って、他の誰かのために「慰めの子」となることを目指しませんか。