親切についての聖書の言葉
私たちの多くは「人に迷惑をかけない」よう教えられて育ってきたと思いますが、ノートルダム清心学園の理事長を務めた渡辺和子さんは、「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10:30-37)を持ち出して、私たちがさらに一歩進んだ行動をすることを勧めています。
これを読んで、「黄金律」とも呼ばれる、イエス・キリストの有名な言葉を思い出しました。
「自分がしてほしくないことは、人にもするな」から一歩進んで、積極的にお互いに親切な言葉をかけ、親切に接するなら、この世の中はもっと生きやすい場所になることでしょう。
聖書で「親切」と訳されたギリシャ語の一つであるクレーストスという言葉(「情け深い」「いつくしみ深い」「慈愛」とも訳されます)の本来の意味は、誰かの役に立つこと、真に必要とされていることをすることであり、ある辞典では、その名詞形であるクレーストテースを、「神の方法と神のタイミングで、真の必要に応えること」と表現しています。
次に挙げる聖句の内、最初の4つで「親切」と訳されているのは、このクレーストスか、そこから派生した言葉なので、それを念頭に読むといいでしょう。
愛は親切にする
寛容や親切と訳された言葉はどちらも動詞であり、それがただの気持ちではなく、態度や言動に現れるものであることを意味します。
親切は聖霊の実
「霊」とは、聖霊のことです。自分にはそれほど愛や親切心がないと思っても、そうありたいと願うならば、自分の力ではなく、私たちの内に働く聖霊によって、「神の方法と神のタイミングで、真の必要に応えること」が可能です。
親切を着る
親切と赦し
親切な言葉
心からの親切
たとえお願いされたからであっても、親切は自分の確信と決断でするものであり、いったんすると決めたからには、心からした方が、自分にとっても気持ちのいいものです。
その親切は、イエスにしたこと
これは、困っている人を助けるために、その人が真に必要としている形で親切な行いをした者たちに語られた言葉です。(マザー・テレサは、生涯この言葉を胸に活動を続けました。)
「私のために、私に代わって、この人を助けてほしい」と、イエスが私たちをその人の元に導いておられるのでしょう。相手が初めて会った人であれば恥ずかしく感じるかもしれませんが、イエスのこの言葉を思い出せば、勇気が湧いてきそうです。
親切を示す機会が訪れた時、私たちが一歩足を踏み出して、お互いに助けの手を差し伸べることができますように。