ひとりぼっちだと感じる時に思い出したい聖書の言葉
孤独の原因や対処法はさまざまですが、悩みを打ち明けられる人がいると、それだけで気持ちが楽になることがあります。
政府が先月発表した「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査(令和4年)」という報告書に、「不安や悩みを相談することへの感情」(複数回答)という項目がありました。
上位2位は、3位(10.5%)と大きく差をつけて、このようになっています。
「相談することで解決しなくとも気持ちが楽になる」(71.9%)
「相談することで解決できる、または解決の手掛かりが得られる」(55.7%)
かなり多くの人が、誰かに不安や悩みを話すことは助けになると感じています。ただ、そうやって心を許せる人がいれば良いのですが、そういう人がいなかったり、あるいはどうせ分かってもらえない、恥ずかしいなどと感じたりする場合もあるようです。
そんな時、私たちにはイエスという友がいて、何でも打ち明けてほしいと願っていることを覚えていたいと思います。
悩みをいくら話しても、それがイエスの負担になることはありません。説明が面倒なら、「疲れた」の一言だけで、心の内を理解してもらえます。話すのを恥ずかしく感じる必要もありません。
イエスは、自分の命を捨てるほどに愛している私たちを、いつでも助け、励まし、慰めたいと願っておられます。
いつも私たちのすぐそばにいるイエスを、神を、私たちはただ呼べばいいだけです。
私たちが呼び求める時、主は助けてくださいます。
悩みを完全に解決することもあれば、うずくまる私たちが起き上がれるように、何らかのメッセージを私たちの心に直接、あるいは聖句や他の人の言葉を通して、語ってくださることもあります。
大切なのは、私たちが問題にではなく、主に目を留めるということです。
この詩の作者ダビデは、ひとりで苦しんでいても孤独ではなく、目を向けて「恵みを与えてください」と呼びかけることのできる主がおり、その主の愛に信頼していました。
問題に目を向けつつも、心の焦点を問題に合わせるのと、主に合わせるのとでは、大きな違いが生じます。
友だちや家族、先輩や上司は、もしかすると私たちを見捨てることがあるかもしれませんが、主は決してそうされません。
イエスは、十字架にかかる前の最後の食事の席で、不安がる弟子たちにこう言われました。
「あなたは私の愛する子なのだから、決してひとりぼっちにさせない」という約束です。
一方、その弟子たちがイエスを置いて逃げていくことを預言して、こう言われました。
イエスは、ひとり残されましたが、父なる神が共にいてくださると知っていました。
それでも、十字架の上では罪人として死に、神に見捨てられたように感じており、その苦しみは私たちの想像をはるかに超えるものでした。(マタイ27:46)
こうして精神的にも身体的にも、計り知れない苦しみを味わったイエスほど、私たちのすべての苦しみを理解できる人は、他に誰もいないことでしょう。
誰も頼れない、誰からも愛されていない、孤独だと感じる時には、これらの聖句を思い出してください。
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