いつも共にいてくださる神
友人が手術のために今日から入院ですが、こんなご時世なので、家族でさえ面会できないとのことでした。
メールでの連絡はできますが、本当は家族や友人が会いに来られるなら、ずっと心強いことでしょう。
そこで、友人夫婦のために祈っていると、神はこの聖句を思い出させてくださいました。
友人は決してひとりではなく、神が病室で、また手術室で共にいてくださり、医師や看護師の手を導き、無事に手術を終わらせてくださるという素晴らしい約束に思えました。
臨在
神が私たちと共におられることを「臨在」(臨:その場に、在:いる)と言います。
ちょっと堅苦しくて難しい感じのする言葉ですが、実際には「神が私たちと共におられる」というとてもシンプルで素晴らしいことを意味しているので、そのような気持ちでこの記事を読んでいただければと思います。
(聖書では、臨在を表現するために「神の御前」といった言葉を使うこともあります。)
インマヌエル
マタイの福音書の第1章で、イエスは「インマヌエル」と呼ばれており、それは、「神が私たちと共におられる」という意味です。(マタイ1:23)
イエスを救い主として受け入れたなら、神が私たちと共に、また私たちの内におられるので、神に会うために神殿や寺院、霊峰やパワースポットを巡る必要はありません。(ヨハネ4:21、使徒17:24、1コリント3:16)
そして、同じマタイの福音書は、イエスの次の約束で締めくくられています。
「いつも」という言葉から、結婚の誓いの言葉を思い出しました。
「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も」、主イエスは私たちと共にいて、私たちを愛し、慰め、助けてくださいます。
試練や逆境の中で神の臨在を意識する
「健やかなる時、喜びの時、富める時」はもちろん、「病める時、悲しみの時、貧しい時」・・人生の暗い谷間や荒野を進んでいる時にこそ、神の臨在を意識することが大切です。
辛くて苦しい状況にあっても、神の臨在を意識することで恐れや苦悩が和らぎます。
ダビデは荒野にいた時に、神の臨在を意識したので、そこは彼にとって、神を仰ぎ見る聖所に変わりました。
臨在を感じる時、感じない時
奇跡的な出来事があったり、感動的な説教を聞いたりすると、神の臨在を感じるかもしれませんが、日常的に絶え間なく感じるという人はあまりいないと思います。
出エジプト記にはさまざまな奇跡が記されていて、そのたびに彼らは神の臨在を感じたことでしょう。
でも、それは40年という長い期間に起こったことであり、ほとんどの場合、彼らは目に見え、感じられるものではなく、信仰によって荒野の中を進まなければいけませんでした。
そして残念なことに、彼らの多くはたびたび自分たちが神から見捨てられたと思い込み、不平を言い続けたのです。
神の臨在を感じるのは素晴らしいことですが、何も感じられず、それどころか神不在の荒野にいるように思えても、先ほどのダビデのように神の臨在を意識し、信仰によってそこを神の聖所に変えるという選択を下すことができます。
「病める時も、悲しみの時も、貧しい時も」、主はいつも私たちと共にいて、私たちを愛し支えていてくださることを、忘れませんように。
臨在を楽しむ
神の臨在を日々意識していると、より良い生き方をしたくなり、愛情深く振る舞い、人を思いやりたいという気持ちが自然と湧いてきます。
また、神が私たちの人生を導いていてくださることがわかるので、あまり思い煩わなくなり、より深い心の平安や喜び、勇気を感じるようになります。
そして、ダビデが次の詩篇に詠んだように、主の臨在を楽しむことで、より楽しく豊かな人生を送ることができるのです。
家族や友人と共にいることを楽しむように、主と共にいることをもっと意識して、その時間を楽しむことによって、心が平安と喜びで満たされますように。