弱い時にこそ強い
「弱い」という言葉にはマイナスのイメージがあり、弱さに憧れる人はいないかもしれません。
しかし、私たちは誰もがさまざまな弱さを抱えて生きています。
病気、障害、年齢に伴う体の衰え、メンタルの弱さ、なかなか克服できない弱点・・人それぞれですが、弱さがまったくないという人はいません。
使徒パウロは、コリントにいる信徒たちへの手紙の中で、弱さについて多く語っており、特に第二の手紙では、自分自身の弱さについてもかなりオープンに話しています。
コリントには自分の強さや賢さを誇る人たちがいて、彼らは「自己推薦」をし、「仲間同志で互にはかり合ったり、互に比べ合ったりして」いました。(2コリント10:12)
そればかりか、パウロのことを、「会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」と侮辱していたようです。(2コリント10:10)
しかしパウロは、弱さについてのまったく異なる見方を、神から示されていました。
高慢にならないように
「とげ」というのは先の尖ったものを指す言葉で、ここでは激しい痛みを与えるもののたとえです。
パウロが書いた他の手紙の記述から(ガラテヤ4:13-15など)、目の病気のことを話しているようですが、はっきりとは書かれていないので、他の病気か霊的な苦悩のことかもしれないと考える人もいます。
それが何であれ、三度祈っても癒やされることはありませんでしたが、それは彼が高慢にならないためであり、良いことなのだと言っています。
確かに、パウロほどの偉業を成し遂げた人が、体も心も調子が良く、何の弱さもなければ、すべては自分の力によるものだと思い込み、高慢になったかもしれません。
サタンが送ったものであっても、神はそれをパウロの益となるよう役立たせてくださったのです。(ローマ8:28)
パウロはさらに、こう語ります。
神の力が完全に表れるように
「弱さを誇る」とは、自分が弱い存在であると自覚し、そんな私たちの中にあって、主の力が働いてくださるよう願うことです。
自分の弱さを認めないかぎり、主の力が私たちのうちに完全に表れることはありません。
ここで一つ覚えておきたいのは、強いことが悪いわけではないということです。
ただ、その強さを自分の力で頑張って手に入れようとするのではなく、「キリストの力がわたしに宿るように」と心から願うことが大切です。
そして、「弱い時にこそ強い」というのは、強がりでも、やせ我慢でも、あきらめでもありません。
それは、キリストの力が自分の弱いところに完全に表れるという言葉を信じたパウロの、確信に満ちた宣言です。
自分の弱さを認めることから得られる益
自分の弱さを認める時、他にもこんな益があります。
=互いに助け合う気持ちが生まれる。
=他人の弱さに寄り添えるようになる。
=自分一人の力でやり遂げようとする必要がないと分かり、荷が軽くなる。
=弱いままの自分を神が愛してくださっていると知り、神の無条件の愛を感じられる。
イエス・キリストの模範
弱さの内に神の力が表れることの一番の手本は、イエス・キリストが十字架にかけられることによって、復活という奇跡が起こり、さらに、人類に救いがもたらされたことです。
また、イエス自身も、パウロがしたように、それを神からのものとして最終的に受け入れる前に、三度祈られたのは興味深いことです。(マタイ26:39-44)
もしあなたが、自分は弱い人間だと感じるなら、神はあなたのためにも素晴らしい計画を持っておられます。
何度も祈った後、その弱さを受け入れることが神の御心であると確信したなら、弱さを嘆くのではなく、パウロのように「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と宣言して、神にその力を発揮していただきましょう。
◆ ◆ ◆
(よろしければ、こちらの記事もどうぞ ⇓ )