愛に裏打ちされた神の忍耐
何かの記事を読んでいて、「コーチには忍耐が必要」という言葉が目に留まりました。コーチがスポーツ選手を成長させるには、愛に裏打ちされた忍耐が必要だと言うのです。
確かに、選手が新しい技術を習得したり、記録を更新したりするには忍耐が必要ですが、コーチも忍耐をもって選手の成長を見守らなければ選手を支えることはできません。そして、選手がそのことを理解して、コーチを信頼するのも大切なことです。
それは、私たちと神との関係にも言えると思います。神が愛情と忍耐をもって私たちの成長を助けておられると信じ、その指導を受け入れないかぎり、私たちの魂はなかなか成長できません。
また、コーチとは別の角度から言えば、すぐに祈りがかなえられない時、忍耐が試され、まるで神に待たされているように感じることがありますが、実は、神も(あるいは、神こそが)私たちを忍耐強く待っておられるのかもしれません。
イザヤ書には、こんな言葉があります。
これは、アッシリア帝国が急速に勢力を拡大していた時のことで、脅威を感じたユダ王国は神に頼るよりも、エジプトに保護してもらおうとしました。しかし神は、預言者イザヤを通じて、それは助けとなるどころか、かえって彼らの恥となると告げています。(イザヤ30:1-5)
さらに、神に立ち返って信頼するよう求めたのに、彼らはそれを拒み、ますます自分のやり方で助かろうとしました。(イザヤ30:15-16)
そんな反抗的な状態にあった彼らでしたが、神を呼びさえすれば恵みを注ごうと、神は待っておられました。まさに、愛に裏打ちされた忍耐、私たちを深く愛するがゆえの忍耐です。
私たちに「恵みを与えようと」しておられる神は、私たちが自分の力や知恵で解決しようとするのをやめて、その恵みを受け取れる状態になるのを忍耐して待っておられるのです。
このような、愛に裏打ちされた神の忍耐は、「イエスは再び来ると約束したけれど、来ないじゃないか」というあざけりに関する使徒ペテロの言葉にも現れています。
私たちがイエス・キリストの再臨を待つ間、神もまた多くの人が悔い改めるのを、忍耐して待っておられるのです。このような例は、他にも多くあります。
私たちの願いが、望むほど早く、望みどおりの形でかなえられないとしても、それは神が無関心だからではありません。神は深い関心と愛情をもって、最も私たちの益となる形でそれが実現される時が来るまで待っておられます。そして、その待ち時間も、私たちの成長の時となります。
私はこれらの聖句を思い出す時、待つことは無駄ではなく、意味のあることだとわかり、神をもっと信頼したくなるし、何よりも、神がそんなにも愛と忍耐をもって私たちを待っていてくださることに感謝したいと思うのです。
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