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与えることでもたらされる幸せ
先日、あるTVドラマで、「1万円。拾うのとあげるのと、どちらが幸せ?」という問いがありました。
さまざまな答えがある中、ひとりの登場人物は、あげるほうが幸せ、なぜなら、相手も自分も幸せになれるから、と答えています。
私の人生を振り返ってみても、与える幸せを知る人は、確かに何重にも幸せになれると思いました。
100倍の祝福
私たちが結婚してまもない頃、ある宣教師夫妻が家に訪問してくださいました。
旅費などに使ってほしいとの気持ちから、お金の入った封筒を手渡そうとすると、私たちが非常に慎ましい生活をしている様子を見ていた夫妻は、それを受け取ろうとしませんでした。
確かに、5千円というお金が、当時の私たちにとって大きな額であったことは否めません。
でも、どうしても受け取ってほしかった私の口から、思わず「大丈夫です。神は100倍にして返してくださるので」という言葉が出てきました。
それは、イエスがマルコ10章29-30節で語られた、イエスと福音のために自分の大切なものを捨てた人は、その100倍を受けるという言葉から来ています。
(そこで「捨てる」と訳されているギリシャ語の言葉には、「あとに残す」や「去らせる」という意味があります。)
その聖句自体は、文字通り100倍の報いがあるという意味ではないし、そもそも献金などのことを言っているわけでもありません。
ただ、この場合、私はその5千円を「去らせ」て宣教師夫妻に贈ろうとすることによって、金銭的に困るような事態に陥ることを神は許されないので、ぜひ受け取ってほしいという意味で、そう言ったわけです。
私たちが心から与えたがっていることを知った夫妻は、それを受け取ってくれました。
そして2ヶ月後、なんと思いがけず、50万円の臨時収入が入ったのです。まさに、100倍ではありませんか。
私は何かを期待して、あの言葉を言ったわけではないし、ましてや100倍になって返ってくるとは思ってもいなかったのですが、おそらく神は、それがあの5千円に対する報いであることを明確にするために、その金額を与えてくださったのでしょう。
与える信仰、受け取る謙虚さ
この出来事によって、与えることに関する私の信仰は大いに強められ、今ではささやかながら毎月欠かさず、誰か助けを必要としている人を経済的に支援するようにしています。
与えよ、そうすれば自分にも与えられるであろう。
もちろん、お金を与えたら常にお金が返ってくるということではありませんが、神がさまざまな形で与えてくださる祝福をよりはっきりと感じられるようになりました。
また、誰かが助けを申し出てくれた時は(相手の人が心からそうしており、私も実際に助けが必要な場合)、過度な遠慮はせず、ありがたく謙虚な気持ちでそれをいただくようにしています。
私のちっぽけなプライドによって、その人が神から祝福を受ける機会を奪わないようにしたいからです。
心から与える
与える時に大切なのは、義務感や強制によってではなく、心から与えたいと感じるものを与えるべきだということです。
各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
喜んでそうしたほうが気持ちはいいし、普段から自然な気持ちで与えられるようになります。
見返りを期待せずに与える
もう一つ大切なのは、見返りを期待しないほうが幸せになれるということです。
「与えれば、与え返されるべき」という気持ちで与えるなら、それは投資であって、愛の行為ではありません。
私が与える時は、自分が神や人からすでに受けている恵みをお返しする気持ちでそうするようにしています。
また、先述のドラマの言葉にあるように、与えること自体が幸せなことです。
受けるよりは与える方が、さいわいである。
お金に限らず、物、親切や優しさ、時間など、いつも何かしら与えられるものはあります。
神から与えられた恵みを他者に分け与えることによって、あなたの人生がさらに豊かな恵みで満ち溢れますように。
つまり、こういうことです。惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。