言葉の声
先日、朝起きた時に、いきなり「声」という言葉が頭に浮かんできました。そしてすぐに、ヨハネによる福音書の冒頭の言葉を思い出したのです。
ここで、イエス・キリストは「言」と呼ばれています。原文のギリシャ語では「ロゴス」で、それは内にある思考と、それが外に表れた言葉の両方を指しています。つまり、イエスは神の思いを言葉にして語り、私たちが見ることのできる形で神の本質を現した方なのです。
「声」は、単に自分の思いを口から出す音ではなく、その音の出し方(優しい声や荒々しい声といった語調)のことでもあります。私たちは声によって、言葉だけでは伝えにくい感情なども、よりはっきりと伝えることができます。
以前、ある海外の牧師の説教を文字起こししたものを読んだ時のことです。正確には、英語に文字起こしされた内容が日本語に翻訳されたものでした。一部に、厳しく冷たい響きがあったのを覚えています。
それから何年か後に、元となっている録音ファイルを聴く機会があったのですが、冷たく感じていた箇所が、実際にはとても優しく温かい口調で語られていたので、その違いに驚かされました。
翻訳者は録音されたものを聞いておらず、文字起こしされた英語の文章から翻訳しているので、どれほど優しく穏やかな声で語られていたのかを知りません。厳しい口調で話しているのだと思い込んでしまい、その解釈が言葉のニュアンスに影響したようです。
イエスが2千年前にこの世に来られた時、聖書を研究し解釈する律法学者たちは、表面的なことにとらわれて、愛や誠実などの本質的なことをないがしろにしていました。言葉は暗記するほどに読んでいても、その「声」がよく聞こえていなかったようです。(マタイ23:23、ルカ11:42)
そこに、神の思いを知らせる言葉として、イエスが「肉体となって」来られました。そして、聖書はどのような「声」で語られているのかを、その言動によって示されたのです。例えば、隣人愛については、こう言われました。
「隣り人を愛せ」は、神が語られたことですが(レビ19:18)、後半の「敵を憎め」は、律法学者たちが付け加えたことです。愛するのは隣人だけでよく、敵は憎むのが当たり前と解釈したのでしょう。
しかし、イエスは、当時のユダヤ人が敵対視していたサマリア人が登場する「善きサマリア人のたとえ」を話すことによって、敵味方関係なく、誰であれ助けが必要な人や、助けの手を差し伸べる人は「隣人」であると示されました。(ルカ10:25-37)
こうして、イエスは聖書の言葉の中にある神の本当の「声」を聞くように教えたわけですが、それだけではなく、ご自身もそれを実行されました。ザアカイと出会った時のように。(ルカ19:1-10)
ザアカイは、ローマ政府から徴税の仕事を請け負っていた取税人の頭です。取税人は敵であるローマのために働くだけではなく、税金を過剰に取り立てて私腹を肥やしていたので、民衆の敵とみなされていました。
ある日、自分の町に来たイエスをぜひ見たかったのですが、背が低かったため、木に登らなければなりませんでした。ザアカイに気づいたイエスは、初対面だったのに、「ザアカイよ」と話しかけ、彼の家に泊まりたいとまで言われたのです。
皆から嫌われていたザアカイに、それほどもフレンドリーに優しく話しかけるのを見て、周りにいた人たちは(そしてザアカイ自身も)かなり驚いたことでしょう。イエスの愛に心を打たれたザアカイは、それまで自分がしてきたことを悔い改めて、自分の財産の半分を貧民に施す、また、不正な取り立てをしていた相手には4倍にして返すと約束したほどです。
これは、聖書の言葉の表面的なところだけを捉え、ザアカイを罪人と呼んで見下していた宗教家たちには、決してなしえなかったことです。
こうして、神が聖書に記された言葉の「声」について考えながら、私は聖書の言葉をただ表面的に捉えるのではなく、神の声に耳を傾け、本質的なところで捉えられますようにと祈りました。
そして、私自身の言葉の声も、当時の宗教家たちのように人を裁くものではなく、イエスのように優しく愛に満ちたものとなりますように。