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祈りのご利益?

最近、ある人が、「祈っても自分にはご利益りやくがないので、祈らない」と言っていました。たしかに、多くの人が祈るのはご利益のためであり、祈らないのはご利益を感じられないからなのかもしれませんね。

後になって、「私はなぜ祈るのだろう」と自問してみたのですが、何よりも「神は天の父であり、私は父と話をしたいから」という結論に至りました。そして、そんな父との会話を、一方的な願い事だけで終わらせたくはないと思ったのです。

以前にも書いたように、「子どもが親に話すのはお願いだけではありません。感謝の気持を伝え、間違いを認めて謝り、悩みを打ち明け、疑問を告げるといったことも、大切なコミュニケーションの一部であり、それは祈りの場合も同様です。」(『祈りについての聖書の言葉』)

そして、「祈りはすべて神に聞かれますが、すべてが自分の思い通りに叶えられるわけではありません。神はランプの精ではなく、天にいる私たちの父であり、子どもの願いをすべてそのまま叶えるわけではないのです。その理由は様々ですが、そもそも私たちの知識や理解力は限られているので、最善のものを祈り求めているとはかぎりません。」(『祈りが叶えられない時』)

「ご利益」の定義(広辞苑)が「神仏の力によって授かる利福」、つまり利益と幸福であることを考えるなら、たとえ自分の思い通りにならなかった時でも、祈ることによって多くの利益と幸福を授かることは、たしかです。

表面上は苦しい状況が変わらず続いている時、神は私たちの祈りを聞き、涙を見て、一緒に苦しんでおられます。そして、それを乗り切るための忍耐や導き、力、慰めを与えるという形で祈りに答えてくださることもあります。

主はこう言われます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」

(列王記第二 20:5 新改訳2017)

彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。

(イザヤ63:9 聖書協会共同訳)

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。・・わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもってあなたを支える。

(イザヤ41:10 口語訳)

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

(2コリント1:4 新改訳2017)

愛であり、全知全能である神が、私たちの願い事を知った上で、その願い通りに事を成してくださらないのであれば、それには良い理由があります。神に信頼して、その愛と知恵にゆだねる時、心に平安が訪れます。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

(ピリピ4:6-7 新改訳2017)

この「神の平安」は、とても素晴らしい「ご利益」(神の力によって授かる利益と幸福)であり、神の答の大切な一部であると思います。心に平安があれば、つらい状況も耐えやすくなります。

ただ、忘れてならないのは、私たちの願った通りに祈りが叶えられることも、たくさんあるということです。

私は特に病気の癒やしを強調するわけではありませんが、私や家族、知人の病が医者には説明のつかない形で癒やされたことが何度もありました。また、癒やし以外にも、神が介入されなければ起こり得なかったことを何度も目の当たりにしてきました。

「ただの偶然だ」と言う人もいるかも知れませんが、そんなに素晴らしい「偶然」をこれほども多く経験できたので、やはり私は「感謝をもって祈りと願いをささげる」ことを大切にしていきたいと思うのです。

そして、そのように願いが叶えられる現実を多く見聞きしてきたので、願った通りに事が運ばない時には、何か意味があるに違いないと確信できます。たとえ、私の限られた理解力や知識によって今は理解できなくても、いずれこの世を去って天に行った時、「なるほど、そういうことだったのか。たしかに良い理由があったんだ」と納得できるような理由が。

神は、ランプの精でも、自動販売機でもなく、私たちを愛してやまない天の父です。その父との近く親しい関係を保つために、祈りという手段を与えられていること自体が、私にとっては何よりの「利益と幸福」であり、祈ることは、この世の両親に電話でもするように、とても自然なことなのです。

すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。

(詩篇145:18 口語訳)



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