恵みと平安とがありますように
この混沌とした世界にあって、いかに平安が必要なことかと考えていた時、新約聖書にある手紙に書かれた使徒たちの挨拶を思い出しました。
それは、「恵みと平安とがあるように」というものですが、「恵み」も「平安」も、日本語の言葉が表す以上のことを意味しているので、それを少し説明したいと思います。
祈りが込められた挨拶
「恵みがあるように」はギリシャ式の挨拶であり、「平安があるように」はユダヤ式の挨拶でしたが、使徒たちはその両方を合わせて、それぞれの言葉にさらに深い意味を与えました。
特にパウロは、差出人として彼の名前が記された13の手紙すべてにその挨拶を記しており、それは基本的に次のようなものでした。
これは、単なる挨拶や決り文句ではなく、「あふるる恵みの神」また「平和の神」(1ペテロ5:10、ヘブル13:20)と呼ばれる方から恵みと平安(平和)が与えられるようにとの願いであり、祈りです。
恵み(カリス)
恵みと訳されるギリシャ語のカリスは、相手が良いことをしたとか、報酬を受け取る権利があるとかいう理由ではなく、ただ厚意から何か良いものを無償で与えることです。
新約聖書で特に大切なのは、すべての人に救いを無償で与える神の恵みです。
神に創造されているのに、その神から離れていった私たちが、無条件に愛され、救いに導かれたのは、神の恵みによるものでした。
私たちの側で必要なのは、ただその救いを信じ、受け入れることだけです。
パウロは自分の手紙の中で100回ほども恵み(カリス)という言葉を使っており、それが彼の信仰の中心であったことが分かります。
彼はまだサウロと呼ばれていた時、クリスチャン迫害の中心人物であって、ステパノという弟子を殺すことに賛成したり、自らも家々に押し入り、男女の別なくクリスチャンを引きずり出して牢獄に送ったりしていました。(使徒行伝8:1-3)
そのさなかに復活のイエスに出会い、悔い改めて、神の恵みにより、迫害者から熱心な伝道者に変えられたのです。
自分は大きな罪を犯してきたし、救いを受け取る資格などないけれど、それでも神は赦して救ってくださった・・そう実感したパウロだからこそ、恵みの意味をよく理解し、それを他の人にも伝えたかったのでしょう。
平安(エイレーネー)
平安と訳されるギリシャ語のエイレーネーは、ヘブル語のシャーロームと同様、平和や平安だけではなく、健康、安寧、繁栄など、神の祝福が満ち溢れた状態を指しています。
救いとの関係で言えば、その結果である神との平和や和解、またそれに伴う心の平安という意味になります。
使徒たちの挨拶では常に、「恵み」「平安」の順番になっていますが、それは、神からの恵みに満たされた時に、神からの平安が私たちの心に宿るからです。
豊かに加わる恵みと平安
信者たちはすでに救いを得ていましたが、使徒たちが願っていたのは、救いだけにとどまらない神の様々な恵みが信者たちに増し加えられることです。
ペテロは、それを次のように表現しました。
私たちには、日々、神からの恵みと平安が必要であり、父なる神と主イエスとを知ることによって、それが豊かに増し加えられるとあります。
それは、ただ神についての知識を身につけることではなく、神を個人的に親しく知ることです。
神をより親しく知ることによって、自分がどれだけ神から愛されているか、また赦されているかを実感するなら、それまで気づかなかった恵みにも気づくようになるでしょう。
そして、自分には理解できなくても、神が最善をご存知であると知り、神への信頼が深まるなら、周りの状況に関係なく、心に平安を持てるようになります。
それこそ、イエスが約束した、「世が与えるようなものとは異なる」平安です。
この平安は、自分でなんとかしようと頑張って得られるものではなく、神からの恵みによって、自分の思い煩いを神にゆだね、神を信頼することによって得られるものです。
皆さんの心も、父なる神と主イエスからのそのような恵みと平安で満たされるよう、お祈りしています。