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聖書が教える「さいわい」
聖書で幸福・幸せを表現する言葉のひとつに「さいわい(幸い)」があり、「~な人は、さいわいだ」(さいわいなことよ、~な人は)という表現でよく使われています。
この「さいわい」は、通常の日本語で意味する「運よく、恵まれた」状態にあることから感じる幸せではなく、「神に祝福され、恵まれている」ことからくる幸せを言います。
「運」によって、また状況や時間の流れによって、感じたり感じられなくなったりするようなものではなく、大変な状況にあっても持ち続けることのできる、神からの祝福であり、幸せなのです。
この言葉の出てくる聖句を読みながら、聖書の教える「さいわい」について考えていただければと思います。
至福の教え
心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだから。
悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるから。
柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐから。
義に飢え渇く者は幸いです。
その人たちは満ち足りるから。
あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるから。
心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るから。
平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだから。
これは、イエスの山上の説教の冒頭にある有名な言葉で、至福の教えと呼ばれています。
どんな状況にあっても、現在持っている、あるいは神がこれから与えようとしておられる祝福や幸せが取り去られることはありません。
(ただ、私たちの目が悲しみや問題にばかり向けられていると、祝福や幸せが見えなくなってしまうことはあります。)
弱者を助ける人
貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。
ここで「貧しい」と訳されたヘブル語は「弱い」という意味で、経済的な弱さだけではなく、身体的、精神的に弱っている状態のことも指します。
わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また「受けるよりは与える方が、さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである。
神の言葉をただ聞くだけではなく、実行する人
むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。
もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
ヤコブは、「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人・・は、その行いによって祝福される」と書いています。(ヤコブ1:25)
罪がゆるされた人
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。」
行いは大切ではあるものの、神の救いにふさわしいほど立派な行いができる人は誰もいないので、信仰によって救いにあずかることができるのは、この上なくさいわいなことです。
神の懲らしめを受ける人
見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲しめを軽んじてはならない。
罪がゆるされた人にとって、神の懲らしめは罰ではなく、訓練であり、私たちを強め、成長させてくれるものです。また、神から愛されているしるしです。(ヘブル12:5-11)
試練を耐え抜いた人
忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
もし、ヨブが途中で投げ出していたなら、ただ苦しみを味わうだけで、その結末として訪れる祝福の数々(ヨブ42:12-16)を逃していたかもしれません。
神に寄り頼む人
主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
懲らしめや試練であれ、悪魔の攻撃によるものであれ、苦しみのさなかに、「悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)である神に寄り頼むことができるのは素晴らしい祝福です。
さいわいな人についての聖句は、他にも数多くありますが、最後にもう一つだけ紹介したいと思います。
主を神とする人
このような祝福をもつ民はさいわいです。主をおのが神とする民はさいわいです。
多くの祝福の中でも一番の祝福は、祝福の源である方が私たちの神となってくださったことです。
この方を知り、近しい関係を育むことで、よりさいわいな人生を送れますように。