聖書が教える「さいわい」
聖書で幸福・幸せを表現する言葉のひとつに「さいわい(幸い)」があり、「~な人は、さいわいだ」(さいわいなことよ、~な人は)という表現でよく使われています。
この「さいわい」は、通常の日本語で意味する「運よく、恵まれた」状態にあることから感じる幸せではなく、「神に祝福され、恵まれている」ことからくる幸せを言います。
「運」によって、また状況や時間の流れによって、感じたり感じられなくなったりするようなものではなく、大変な状況にあっても持ち続けることのできる、神からの祝福であり、幸せなのです。
この言葉の出てくる聖句を読みながら、聖書の教える「さいわい」について考えていただければと思います。
至福の教え
これは、イエスの山上の説教の冒頭にある有名な言葉で、至福の教えと呼ばれています。
どんな状況にあっても、現在持っている、あるいは神がこれから与えようとしておられる祝福や幸せが取り去られることはありません。
(ただ、私たちの目が悲しみや問題にばかり向けられていると、祝福や幸せが見えなくなってしまうことはあります。)
弱者を助ける人
ここで「貧しい」と訳されたヘブル語は「弱い」という意味で、経済的な弱さだけではなく、身体的、精神的に弱っている状態のことも指します。
神の言葉をただ聞くだけではなく、実行する人
ヤコブは、「聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人・・は、その行いによって祝福される」と書いています。(ヤコブ1:25)
罪がゆるされた人
行いは大切ではあるものの、神の救いにふさわしいほど立派な行いができる人は誰もいないので、信仰によって救いにあずかることができるのは、この上なくさいわいなことです。
神の懲らしめを受ける人
罪がゆるされた人にとって、神の懲らしめは罰ではなく、訓練であり、私たちを強め、成長させてくれるものです。また、神から愛されているしるしです。(ヘブル12:5-11)
試練を耐え抜いた人
もし、ヨブが途中で投げ出していたなら、ただ苦しみを味わうだけで、その結末として訪れる祝福の数々(ヨブ42:12-16)を逃していたかもしれません。
神に寄り頼む人
懲らしめや試練であれ、悪魔の攻撃によるものであれ、苦しみのさなかに、「悩める時のいと近き助け」(詩篇46:1)である神に寄り頼むことができるのは素晴らしい祝福です。
さいわいな人についての聖句は、他にも数多くありますが、最後にもう一つだけ紹介したいと思います。
主を神とする人
多くの祝福の中でも一番の祝福は、祝福の源である方が私たちの神となってくださったことです。
この方を知り、近しい関係を育むことで、よりさいわいな人生を送れますように。