イベントから生まれる「新たな日常」を信じたい。
Edcamp TAITOという対話の場を作っています。
学びの場は学校だけではないからこそ、教育を学校任せにするのではなく、
・みんなで子育てができる街にしたい。
・子どもに関わる人々と、立場を越えて地域の教育を考えていきたい。
という願いをもって続けてきました。
けれど最近、イベントを企画して→人を誘って→対話して・・・・という非日常のイベントと「みんなで子育て・教育ができる街」という目指したい日常との乖離にじわじわと心が落ち込んでいました。
神戸市長田区の暮らしに惚れ込んで移住し、もはや暮らしそのものが価値になっている小笠原舞ちゃんから聞いた話も衝撃的で。帰ると家の中に近所の子どもたちがいるとか、子ども食堂なんて言わなくてもあちこちで「ごはん食べていきな・食べてくね」が起きているとか。アート・ダンス・国際理解・多様性・・・みたいものが街中に溢れているという暮らし。スライドに映る暮らしの登場人物の多様さにも驚きを隠せませんでした。「学校でこんな活動を!!」って声が少ないんじゃないかという印象も。先生から話を聞いたわけではないから勝手な予想だけれど、あれだけ子どもたちが街に解き放たれてたくさんの人と関わって生きていると、学校が本当にやるべきことに専念できそうな気もしました。(ゲストによる多様な大人との出会いなんて必要ない!?)きっと、よくよく観察すれば、街中での出来事や場所1つ1つは誰かが企画して作られたものなのかもしれないけれど、もはやそれが「日常」になっているように見えたのです。
だからこそ市区町村という規模感を対象に「対話しませんか!?」「街中を学びの場に!」と声をあげてEdcamp=非日常のイベントをやっていることが、とてもとても虚しく感じられたのです。Edcampで数時間話したことで、街の日常にどんな変化があるのだろうかと。「イベントばっかりやってる奴って大嫌いだ。」という言葉を最近聞いたのもチクッと胸に残ったりしています。(私に向けられた言葉ではないですが。笑)
じゃあ、私の日々はどうかというと・・・
近所のお祭りでの即興お届けサービス
先週末、数年ぶりに地域のお祭りが再開しました。徒歩圏内のいくつもの通りが歩行者天国となって、それはもう大変賑わっておりました。
Live、フリーコーヒー&お味噌汁、紙芝居、工作、お絵かき、ビールとおつまみ、駄菓子、スタンプラリー、落語、くじ引き、秋冬服どうぞ、占い、物販(食・雑貨・お茶 etc…)、健康相談・・・・なんというか、思いつく限りの楽しそうなお祭りコーナーがあちこちに散りばめられている感じで、子供ら(5歳・2歳)を連れてたっぷり遊ばせてもらいました。
そこでですね、2度も即興お届けサービスをしてもらっちゃったのです。
1度目はフリーコーヒー。ちょうどドリップ中のコーヒーをいただこうとしたら、道の向こうから聞こえてくる賑やかな演奏に心奪われた子どもたちが私の腕を引っ張る訳です。間に合わなそうだから「やっぱり諦めますー」って言ったら、
「お届けしますよー!」って。
「えぇーー!いいんですか!?」って言ったら、にこやかに「お味噌汁も飲む?」って子どもらにも声をかけてくれて。結局、楽しく演奏を聞いているところにコーヒー+お味噌汁2つをわざわざ届けてくれたんです。淹れたてのコーヒーが染みました。
で、2回目はお昼ご飯。道端で販売していたナポリンタンとフライドポテトを買おうとしたら「フライドポテトは揚げるのに5分くらいかかるんですよねぇ。」って言われまして。子ども達5分は待てないかもなぁって思ってたら
「どこで食べます?届けますよ!」って。
隣の通りにある公園のベンチでナポリタン食べて、滑り台で遊んでーってしている我々親子に、揚げたてのポテトを本当に届けてくれたんです。その日はまさかの2回もお届けしてもらって、「ほんと、みんな優しいねぇ、幸せだねぇ。」って呟きまくってました。
ワンタン330個をみんなで包んだ夜
お祭り2日目、ご近所さんのお家で子ども達8人とワンタン330個を包み、+大人6人でみんなで夕飯を楽しませてもらいました。下は2歳から上は6年生まで。家では四六時中「ママー!!!」と呼ばれっぱなしの私が、一度も呼ばれないんです。息子に「お碗に左手添えて食べな!」って言ってくれる人がいて、私も「はい、おかわりね。」っていろんな子によそう。下の妹を「かわいいかわいい」と散々遊んでお世話してくれるお姉ちゃん達がいて、「おれもやるー!!」って長男がまとわりついてるお兄ちゃんがいる。
真っ暗な帰り道、自転車の前後に2人を乗せて「いいお兄ちゃん、お姉ちゃん達がいて幸せだねー」と呟きながら帰りました。
朝の挨拶をし合うおばあちゃん
最近、登園中に会うおばあちゃんとの挨拶が日課になっています。夏のとある日、道の脇に立つおばあちゃんがこちらに微笑んでくれたように見えて軽く会釈したのが始まりでした。それからは、あっという間に会釈が「おはようございます」に変わり、子どもらも言うようになり、今となってはおばあちゃんの姿が見えただけで「おーはーよーごーざいまーす!!!!」と遠くから叫ぶ(子供らが)ほどになりました。おばあちゃんがいないと「今日はいなかったねぇ」と少し心配になり、逆にこちらがしばらく保育園を休んだりすると「おばあちゃん、心配してるかねぇ」と話しています。突然サッと何かを持ってきたと思ったら「このカレンダーかわいいからあげるわ!」と突然のプレゼントをもらったりもしました。
「みんなで子育て」はすでにある!?
イベント疲れで落ち込んでいた私は、週末には街の人たちのおかげで少し元気を取り戻しました。毎朝のおばあちゃんとの挨拶で元気をもらっていることにも、気がつきました。
あれ!!!??
既に「みんなで子育て」してもらってるのでは?という考えが頭をよぎります。
もしかしたら「みんなで子育てをする街」を実践している人や場所は、すでに街中のあちこちに溢れていて、私はそれらとはかけ離れたところで勝手にイベントを立ち上げ、声を上げていたのかもしれません。お祭りでコーヒーやポテトを届けてくれた若者たちも、「ワンタン食べてく?」と声をかけてくれたお父さんも、朝すれ違うおばあちゃんも、きっと教育系イベントには来ていないし、「みんなで子育てするには?」なんて対話もしていない。(ような気がする、、、)
イベントは必要ないのか
じゃあ、「これまでやってきたEdcampって意味がないのか??」となる訳です。対話イベントやったって何も変わらないと。
でも、私はそちらの可能性も信じたい。
たまたま私は人が集まる場所が好きで、「頼っていいんだ。」と思わせてくれる人との出会いがあり、声をかけてくれる人が多い(ような気がする)地域に住んでいた。でも、本当に繋がりを必要としている人やしんどい状況にいる人が、自分からそういう助け合いの輪に飛び込むっていうのは、すごく難しいんじゃないかとも思うのです。助け合いの心地よい程度も人それぞれだからこそ、むやみに飛び込んでしまって合わなかった時の距離の取り方とかも難しそう。
私にとっても、この週末はたまたま
「この街で子ども育ててもらってるわー!!」
と実感する出来事が重なったけれど、そうじゃないこともわんさかあるのです。(放課後、街中で遊んでる子は全然見かけないとか、基本毎日ワンオペでヒーヒーしてるとか、学校行かない選択をした子の居場所がないとか)
そう考えると、まだまだ課題だっていっぱい。そして、それらに対して1人ができるアクションも本当に小さい。でも「なんとかできないかなぁ」と思っている人は実はけっこういると思うのです。そういう人が声に出すことで仲間が見つかったり、それがプロジェクトになって新しい場所が生まれたり。それがいつのまにかその街の「新しい日常」を作ることもあると思うのです。
だから「新しい日常」を作るのは、非日常がきっかけなんじゃないかとも。
ということで、思考がぐるぐる巡った今のところの考えは、
「日常」に既にあるものにも目を向けて幸せを感じられるようになりたいし、
イベントをきっかけに生まれる「新たな日常」の可能性も信じたい!!!
です。