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宿主

 お耳汚しを失礼致します。
 皆さんは『吸虫』と云う虫をご存じでしょうか。
 複数の宿主を介して最終宿主に辿り着き、内臓器官に吸着して寄生するタイプの寄生虫の事です。

 例えば、『ロイコクロリディウム』はカタツムリを中間宿主とし、最終宿主であるスズメ目の小型の鳥を最終宿主として目指します。
 寄生されたカタツムリは、本来隠れて居るはずの昼間に、鳥に見つかり易い葉の上などの目立つ所へカタツムリを操作して誘います。

 『ブルードサック』と云う100匹以上の幼虫が入った色付きの袋がカタツムリの触角の中で波打ち、虫と見間違えた鳥がカタツムリを捕食します。吸虫は鳥の腸内で産卵し、卵が混ざった鳥の糞をカタツムリが食べ、カタツムリの体内で孵った吸虫が触手を目指して集まると云うサイクルを形成するのです。

 この様に宿主をバグらせてコントロールする事例は他にもあり、例えば、『ハリガネムシ』の幼虫は、宿主であるカマキリを水面の反射光に誘い水に飛び込ませますし、『槍形(やりがた)吸虫』の幼虫は、寄生したアリを草の先に噛み付かせて、アリが草と一緒に牛や羊に食べられる様に誘い操作する事で知られて居ます。


 これは、私が子供の頃に母から聞いた祖父の話なのですが…。

 時は1960年頃、世の中は高度経済成長の真っ只中でした。小学校低学年だった母は、転校が多く勉学と友人作りに苦労したと語る程、祖父は転勤族だったそうです。
 北九州地方をメインに多くの仕事に従事し、短い期間に様々な場所へ移り住んだのだとか。

 大戦中、祖父は海軍の飛行機乗りだった事も在り、1952年頃、全日空から旅客機のパイロットとしてヘッドハンティングの話が在ったのだそうですが、思う処が在ったのか、それを一蹴し、鉄塔の電線張りや炭鉱での肉体労働に従事し、危険な労働環境での管理業務を任されて居たのだそうです。

 1945年の終戦から1950年代後半の高度経済成長が始まる頃まで、経済が停滞して居た混乱期であり、労働力不足から労働市場は買い手市場だったにも関わらず、祖父は海軍の二等飛行兵曹(下士官)だった経験から、リーダーシップや責任感、専門性を買われ、直ぐに管理職に就く事が出来ました。ですが私が思うに、心身共に疲弊して居た世代なのでは無いでしょうか。

 私の幼少期の記憶では、
 「じいちゃんは戦争で死に損なった。仲間も家族も皆、戦争で死んでしもた。」
 時々そうつぶやく事が在りました。

 祖父は、新渡戸稲造の『武士道』が根付いた様な軍人思想の持ち主で、根っからの九州男子でした。

 「そがん勉強が好きなら、兄ちゃんが軍人さんに成って、学校に行かせてやる。そん代わり一生懸命勉強せんばぞ。」
 そう約束した一番上のお兄さんが日中戦争に徴兵されたのですが、太平洋戦争開戦前、戦況激化の一途の折、程無くして訃報が届いたのだそうです。

 祖父は教師になる夢を持ち、中学校卒業時には『海軍兵学校』への推薦状を貰えるほど勉学に勤しみ励んで居たのですが、長兄の戦死により幹部候補生への道が途絶え、仕方無く『予科練』へ進みパイロットに成ったのだそうです。

 祖父の唯一の理解者は戦死された一番上のお兄さんだけだったそうで、
 「親父は勉強なんかせじぃ、畑ば耕せて言う人やった。」
 「夜中に勉強ばしとっぎんた(して居たら)、電気代がもったいなかけんと、教科書ば捨てられた。」
 「はがいかけん(悔しいから)、勉強ばせん奴から教科書ば取り上げて、今度は布団ば被って裸電球ん灯りが漏れん様にして、教科書ば読んどったと。そすっぎんた(そうしたら今度は)、布団ば剝がされて、電球ば取り上げられたんやぞ。」

 「昔は今と違うて、お星さんも沢山出とって、月明かりでん本の読めたけん、じいちゃんも負けじと蛍雪で勉強しとったとばい。だけんこまんか頃(子供の頃)から目の悪かったと。」 私の幼少期に、祖父がそう語ってくれた事は、今でも記憶に新しい話です。


 さて、調べた処、日本各地で炭鉱業が栄えて居た時代、佐賀県出身の祖父は『唐津炭田』で働いて居た様です。
 終戦移行、石炭需要が減少する1960年代まで、戦後復興と石炭の重要性は日本経済において非常に重要な位置を占めて居りました。

 『炭鉱町』と言いえばご存じの方も多いかと思いますが、鉱夫やその家族が生活するために必要なインフラが整えられ、町全体が一つの小さなコミュニティとして機能して居ました。
 炭鉱で働く多くの労働者やその家族は、企業が提供する『社宅』に住んで居り、社宅は集合住宅が主でしたが、小さな炭鉱町での社宅は、集落の様に一部に集まって建てられて居た様です。

 祖父が入社した際、たまたま社宅に空きが無く、僅かなりの優遇も在ったのか、
 「少し離れては居るけども。平屋の戸建がある。そこで良ければ…。」
 と、炭鉱から少し離れた、丘の中腹辺りに建つ平屋を充てがわれたのだそうです。

 暫くして、祖父は仕事にも慣れ、祖母は内職、母は小学校、叔父は保育所。各々が地に足のつき始めた頃、地域の夏祭りに出かけた際、母と叔父は、ヒヨコ釣りの出店で一羽のヒヨコを買って貰い育てる事になりました。

 納屋でも家でも何でも建ててしまう技量の在った祖父は、蚊に食われない様に工夫した蚊帳付きの鳥籠を作り、餌は米粒をすり鉢ですり潰して与え、明け方が冷え込み始めた頃には、ヒヨコが凍えない様に綿を敷き、母と叔父で大切に大切に育てたのだそうです。


 そんな充足した日々を過ごして居たある朝、
 祖父が夢でうなされ始め、不眠で仕事にならない日々が続きました。
 「毎晩うなされとーばってん、冒しな夢でん見ようとや?」と、祖母が聞くと、
 「夜中に女ん人ん裏山から降りて来て、おいん事ば呼びよる。裏山ん溜池の怪しかけん、会社んもんに聞いてみるわ。」
 そう言って、その日も炭鉱までフラフラと自転車で出勤したのだそうですが、その翌朝、祖父は高熱を出して寝込んでしまいました。

 医者の見立てでは、どうも風邪ではないらしい。
 原因が分からず無理を押して仕事に出ると、仕事柄、命の危機や大怪我の可能性があると危惧した祖母が、
 「夫が三日三晩熱にうなされて…。」
 と、『拝み屋』に相談しに行き、職場の上司には、住んで居る社宅について詳らかに問い質したのだそうです。

 拝み屋曰く、「このままでは、旦那さんは連れて行かれてしまう。家を変えた方が良い。それ迄は枕の下に塩を置いて結界を張りなさい。」と言われたそうです。

 又、職場の上司曰く、
 「家に障りが在る訳では無いだろうが、丘を登り切った所に在る溜池で、昔、入水自殺をした女が居たらしい。」
 「職場からも少し離れて居るし、人気の途切れる辺り、気味悪がって入居したがる者が居なかった。」
 と、語るのでした。

 祖母は直ぐに不動産屋で別の家を探して貰い、慌てて引っ越したのだそうです。



 「そんな事って在るんやね。」と私が母に言うと、
 「実は、お母も視てん。」
 母が言うには、夕方何かの用事が在って、皆で出かける用意をして居た時、朝晩の雨戸の開け閉めは母に任された仕事だったそうで、
 「4枚くらい引き戸が在ったかな。戸袋に4枚収まって居て、1枚引き出しては縁側の端の御トイレの方までスライドさせて閉めるタイプ。」

 1枚目を閉め切ると、踵を返して戸袋まで戻って2枚目3枚目と繰り返すのですが、1枚目を閉めた時、雨戸の向こう、つまり庭から誰かに呼ばれた気がしたのだそうです。
 不可思議に思いながらも2枚目の雨戸を取りに戻って小走りでパタッと閉めた刹那、2枚目と1枚目の隙間から誰かしらが庭に立って居る様に見えたのだそうで。
 「イヤまさか。」と思いながら、2枚目の雨戸の陰で踵を返して次を取りに戻ろうと、頭1つ分戸板から顔を出して庭をチラと一瞥すると『ドキッ』としたのだそうです。

 縁側の沓脱石(くつぬぎいし)から1段降りると直ぐに庭が広がって居て、縁側から少し先には腰高の植え込みが在り、その向こうには南天の木が茂って、更にその奥は小高く切り立った斜面になって居ました。

 母を凍り付かせたのは、色白細身のなで肩で、白地に柄物の浴衣を着た、年の頃30~40歳代の髪を下ろしたずぶ濡れの女性が、茂った南天の樹冠の陰からジトッと母を眺めて居たのだそうです。
 ヘビに睨まれた蛙の如く動けずに居ると、その女が滑るように動いたかに見えたので、『ゾッ』としながら慌てて残りの雨戸も閉めてしまい、玄関先で出かける用意をして居た叔父と祖父母の処まで掛けて行き、祖母が一緒に確認したのですが誰も居なかったのだそうです。

 母曰く、人が入れる様な処では無かったし、浴衣の柄や髪型などの風貌は覚えて居ても、どうにも顔が思い出せないらしいのです。
 「田舎やから、近所の人の顔は概ね分かるし、見た事ない顔なのは分かったんやけど…。」



 時世柄、疲弊した祖父に付け入る隙が在ったのか、将又祖父を見込んで頼って出て来たのか。

 祖父は言います。
 「人間死んだらそれまで。」
 「トットちゃん(鶏)もキュッとしたらそれまで。後は美味しく頂くだけ。」


 母の思い出語りによると、
 「鶏ってな、鶏冠(とさか)が生えて見た目が大人になっても、暫くはピヨピヨって鳴いてるねんで。」
 「でもな、お母の飼ってた鶏はどれも、コケコッコーって鳴いた事が無いねん。」

 朝起きて餌をやりに行くと、「コッコッコッて鳴き始めたから、明日の朝はコケコッコーって起こしてくれるかなぁ。」と喜んで学校に行って夕方に帰宅すると、いつも祖父が絞めた後で、悲しいかな鶏は膳に上って居たのだそうです。

 「卵を取りたかったのに。」と、母と叔父が不貞腐れて居ると、
 「出店のヒヨコはオンタばっかりぞ。」と言いながらも、後日、どこからか有精卵をいくつか買って来て、孵卵器を作って孵し、卵を産むまで育てたそうですが、勿論その中にオスの鶏は1羽も居なかったのだとか。

 以上、『宿主』と云うお話でした。
 ご静聴ありがとうございました。



<<追記>>

 後日、新たな発見が在ったので追記したいと思います。
 『虫の知らせ』で知られる虫の類で、人の腹に巣くって人を惑わす妖怪が居るのだそうです。高熱にうなされ体内から語り掛けられ、挙句、腹に口が出来るそうです。祖父の体験とはやや事象に差異がある物の、とても興味深い存在です。それに、モデルとなった実在の寄生虫が居た事にも驚きです。

▼応声虫(おうせいちゅう)

 中国や日本の説話集・随筆集に見られる奇病、及びその病気を引き起こす怪虫。

▼回虫(かいちゅう)

 応声虫のモデルとの説のある実在の寄生虫、回虫。


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