伝説の試食販売員
年の瀬も近づき街は明るさと忙しなさが混じり合う。
上司に言われ、各方面に挨拶に廻る日々が続いている。単調でありきたりの挨拶を済まし、次の取引先に向かう。どの駅も人でごった返している。喧騒を離れたくて喫茶店でコーヒーを飲んだりしているが、この日に限ってどの喫茶店も席が空いていない。だれも考えることは同じなのであろう。入れなかった喫茶店の窓を覗きながら駅構内の地下に足を伸ばしてみる。外食が多いのでスーパーなどにはあまり行かないが、ちょうど昼過ぎともあり人もあまりいないようなので喫茶店の席が空くまでスーパーの食品売り場で時間を潰すことにした。
昼食後ということもあり、食欲もない。野菜、肉、加工品など見ても特段と目につくものはなく、ありきたりの安っぽい音楽をBGMにブラブラとしていた。店員の冷ややかな視線が少し痛いが時間を潰すにはちょうど良かった。
生鮮食品コーナーを後にして調味料の方に足を伸ばしてみると奥の方に人だかりができている。カゴを手にしたご婦人たちが納得したような顔で何かの瓶を棚からとっては次々にカゴに入れていく。なんなのだろうと顔を覗かせてみると女性たちの中心には一人の男が立っていた。何かを小さなテーブルの上で調理しながら滔々と語っている。ちょっと離れたとことでは聞き取れないので近づいてみると何やらカレーを作っているらしく、それについて話している様子である。
スパイスのこと、味のこと、作り方のこと、歴史のことから世間話まで様々な話が繰り広げられ、買い物客たちは時に笑い、時に頷き、時には拍手なんかもしていた。なんだか胡散臭いなと思いながらも他にやることもないので少し話を聞いていたら、不思議と笑いがこみ上げてきた。気がついたら手に小さな器とスプーンを持たされており促されるままにカレーを口にしてみた。気がついたら二口目も食べていた。あまりの美味しさに三口目も食べようとしたがもう試食皿の中にはカレーが入っていなかった。
「美味しいでしょう」
と爽やかに試食販売の男は微笑みながらもう一つの皿を私に手渡した。
気がついた時には喫茶店の席についていた。真っ黒なコーヒーに目をやりながら、不思議な気持ちになった。あれはなんだったのであろう。
先ほど買ったカレーの瓶らしきものが入った袋を手に喫茶店を後にして次の取引先に向かう。足取りは軽く、清々とした気持ちである。
どうしてもまた会いたくなり次の日も同じスーパーに行ってみたが、あの男の姿はなくカレーの瓶が置いてあった棚がぽっかりと空になっていた。