見出し画像

仏教信仰を起こす三種の方法~仰信・解信・証信~

仏教の信

 仏教においては何よりも先に「信」が必要不可欠である。
 龍樹大士は云う、

仏法の大海には信を以て能入とす

 仏教は宗教であるから、信仰を重要視するのである。
では龍樹菩薩の云われるその「信」を起こすには、どのようにすればよいかといえば、「仰信」「解信」「証信」の三通りの方法がある。

仰信

 先ずは「仰信」、これは学識や理論などに頼らず善知識や師友の勧めに素直に従って信仰を深めていく方法である。
 釈尊から数えて五番目に法嗣となった優婆掬多尊者(うばきくたそんじゃ)と弟子となったある老農夫の逸話に次のようなことがある、

 往昔印度に一の老農夫あり。老いて死の近きを思い自己の死後を案じ、曾て聞く羅漢果を得ざれば、生死免れ難し、我今云何がして羅漢を得んと。忽ちにして発心して優婆掬多尊者の徳名を聞き遥に尊者の室を訪ねて志願を伸ぶ。願くば尊者よ、我が為に羅漢果を許せと。もし学識を有する漢ならば、羅漢果を得ることは、七賢七聖十四段階を経て初めて得、とても我が望みの叶う処に在らずと思うならんも、農夫は幸いにして無学文盲、羅漢位を得るの階級云何については、一向に知らず。盲勇何の恐るる無く、直に羅漢果を許せと請うた。尊者は彼が仰信の深遠なる必ず得度すべきを洞察し、羅漢を得んと欲せば我に随って来れと峨々たる山岳に昇り崖畔の老樹枝がつきのびたるあり、汝枝上に昇れよ、汝をして得度せしめんと。老夫は一心一向羅漢道を得んと欲して崖下数千丈の危険を毫も意に介せず忽ちに枝上に攀上る。尊者命じてその枝に右の手を放たしめ次に左手、次第に左右の脚を枝より放たしむ。時に老夫口を以て枝を噉う。漸くに尊者問うて汝が求むる処什麼と云うに、老夫もし口を開かば枝より落ちて失命せんと云う如きの躊躇なく、我は羅漢果を得欲しと。老夫の仰信ちに羅漢果を得て空に昇り、七多羅樹十八変を現じて得度の相を示し、即ち下りて尊者の為に謝礼せり。

 上記の逸話から「仰信」のあり方が解る。師と仰ぐ方の教えをただ一向に信じて、その言われる通りのことを為すという極めてシンプルな信仰の起こし方である。ここで重要なのは師が誰でもよいわけではなく、優婆掬多尊者のようなしっかりとした法脈を受けた人師を選ぶことである。老夫の場合は「優婆掬多尊者の徳名を聞き」とあるように、尊者が人々から尊敬と供養を集めていたことを、周囲から聞いており、「この人こそは」という思いがあったことに着目すべきである。

 また「仰信」は上記の老農夫のように直接に教えを受けるだけのことを言うわけでない。日本のある老尼の行状に次のような逸話である、

 美濃国に一の老尼あり、道心堅固にして念仏勇猛にして三昧発得す。其の老尼に覚支の心理状態を説示するに、一々其の心相と相応して違わず一々肯定して実に爾りとす。

 法然上人の『一枚起請文』に、

念仏を信ぜん人はたとい一代の法をよくゝ学すとも、 一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。

 老尼は法然上人の遺訓を一向に仰ぎ、念仏の道に邁進して深い禅定の境地に達したのである。その老尼が説示する自身の心理状態を、教学者が七覚支という教理に照らし合わせると全く合致していたという。勿論のことだが、この老尼は七覚支などという教理のことは知らないのである。
 要するに、仏教において教理教学を知らなくても、善知識の教えを驀直に行じることで信が起こり自ずから成就するというのである。

解信

 続いて「解信」は先の「仰信」と全く違い、教理教学を学び、理論的に理解をして信仰を喚起させる方法である。
 例えば大日房能忍上人のように、仏教の典籍を独修で読み込み、教理を調べて信を起こすというようなあり方である。
 あるいは阿羅漢の境地とはどういうことなのか、そこへ到達するにはどうすればよいのか徹底的に理解できるまで問答を行うなどして、その結果仏教を信仰する、また念仏とは何であるのか、称えることによってどういう救いや結果があるのかを様々な経典や註釈で調べて読み、その結果念仏の信仰者となるというような、極めて理性的に信仰を捉えていく方法論。

 『那先比丘経』いわゆる『ミリンダ王の問い』で、ギリシャのミリンダ王が阿羅漢であるナーガセーナ尊者と何度も繰り返し議論してついに仏教に信仰を起こすなどはこの解信である、

 王と長老との問答が終わったとき、八百四十万ヨージャナの広さのこの大地が、海岸に至るまで六度震動し、電光が閃き、諸天は天の花と雨を降らせた。大梵天は、「素晴らしいことだ!」と叫び、海の底では、雷鳴の轟にも似た大きな音が生じた。そうして、ミリンダ王も、家臣で長老とは見解を異にしていたギリシア人たちの群れも、長老に合掌し、頂礼した。
 ミリンダ王は、大いに喜び、慢心をよく翻し、ブッダの教えが嘘偽りのないものであると考え、仏法僧の三宝への疑念を払い、邪見の藪を離れ、頑迷さを棄て、長老の徳、出離、よい修行道、作法に大いに信頼を寄せ、敬意を払い執著を離れ、高慢と尊大さを棄て、龍王が牙を抜かれたかのように、次のように語った。
 「分かりました。もっともであります。ナーガセーナ長老殿、ブッダを巡る余の問いは、御貴殿によって明快に解かれました。ブッダの教えを巡る余の問いを解明できる人として、真理の将軍サーリプッタ長老を除き、御貴殿に匹敵する人はおりません。ナーガセーナ長老殿、どうか余の無礼をお許しください。ナーガセーナ長老殿、余を優婆塞としてお認めください。今より後、命の尽きるまで帰依いたします」と。
 それから、王は、軍隊とともにナーガセーナ長老に恭しくかしずき、ミリンダという名の精舎を作って長老に寄進し、四種の生活必需品をもって、ナーガセーナ長老と、煩悩の汚れを滅尽した十億の比丘たちに供養した。
 その後、また長老の智慧に感激して改めて信頼を寄せることがあり、王子に王国を譲り、出家し、勝れた観察を重ねて、ついに阿羅漢果に達した。
そこで、次のような偈頌が説かれるのである。
「智慧は、世界で賞讃される。
正しい教えを確立する議論も賞讃される。
智慧によって疑念を断ち切り、賢者たちは涅槃を得る。
智慧を身に具え、正念を欠くことのない者とこそ、
勝れた供養を受けるに値する最高にして最上の人である。
それゆえ、賢者は、自身の利益を正しく見て、
智慧ある人を供養すべきである。
それはあたかも、祠堂が供養されるようなものである。」
(宮元啓一〔訳〕)

証信

 「証信」は実験的体験的信仰で、実地の経験を以て信を起こす方法論である。善導大師と懐感禅師の逸話に次のようなものがある、

 唐の懐感禅師の如きは始め解義をのみ事とし浄土の宗義に於て疑惑を懐きたるについに善導大師のために啓発せられて念仏三昧を修すること三年ついに白毫を感じ浄土の荘厳を観見し而して始めて証信に入る。

 証信は自ら実験実修して、何らかの得る体験をして信が起こり、さらに次の体験に進んでいこうとするあり方である。理想的な起信の方法であるが、証信はよほど先天的に宗教素養がある人物でない限りこの方法から信を起こすことはないであろうと思われる。

まとめ

 以上仏教に信を起こすあり方を見てきたが、「証信」は宗教的センスが生まれつき具わっていないと容易ではない、理性的な現代にあっては「解信」が入りやすい形であるように思う、また素直な性格の人であれば「仰信」がよいのかもしれない。
 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?