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唯心論や空論に執着して地獄の報いを受けた禅僧の話

 江戸時代の禅僧に鈴木正三という方がおられ、その正三道人が著した『因果物語』なる転籍がある。これは正三道人自らが実際に体験した人々から聞いた話をそのまま収録したとのことで、その序分に、

此書は証拠たゞしきものをあつめて末世の衆生をすゝめんがためにかきとゞめられし所也。此故に梓工に銘じて世におこなふ者也と云尒。

『因果物語』雨書房

と記している。

 この書籍の中に、反面教師として学ぶべき禅僧がいる。現代の仏教徒にありがちな誤れる信仰によって報いを受けた逸話である。

『因果物語』の巻第二に収められている、

十七仏法をあしくすゝめて罰あたりし事
濃州八屋と云所に、関山派の長老に関悦と云僧あり。数多の人に悟道をさづけ、よこしまなる道をすゝめ、宮社頭の木をも切とり、仏像を破却せさせ、先祖をもとふらはず、をよそ仏は我心にあり、身の外に仏なしと、さまゞすゝめける程に、此すゝめを聞ける者ども、仏のごとく思ひ、邪見放逸なる事中々おそれても余りあり。しかるにかの長老むなしく成ければ、葬礼せんとて棺をかき出しける所に、火車来りて尸骸をつかみてゆき、かたなこなたに手足首を引ちぎり木のえだにかけをきけり。又かの法を聞て信じたる者ども、大疫病をうけて大かた死けり。その後は在所の者ども心ざしをあらため、とりやぶりける堂宮を本のごとく建立し、竹木をも植たり。これより安穏に成たり。正保二年の事也。

『因果物語』雨書房

 今の岐阜県美濃の辺りに関山派(関山禅師の流れを汲む?)の禅僧がいたようで、その仏教に対する考え方は極端な唯心論というか、空論・空病というかそれをもって、我が心、我が身の他には仏も何もないというようなものだったという。
 したがって、神木も仏像も先祖供養なども所詮は心の描き出した想念によるもので、全て破却してしまったのである。

 当然、仏教では因果応報や業報を説く故に、仏像破壊などは五逆罪に準ずる行いであり、先祖を蔑ろにするのは七不退法のひとつを破棄するものである。 
 その結果、禅僧は命終にあたって、地獄の火車が現れて悪しき最期を迎えてしまった。禅僧を信じた信徒も同じように疫病などで苦しむことになった。
 後に民衆は考え方を改めて、破却する前の元の状態に全てを戻して安穏に過ごすことができたという。

 現代でも、上座系や禅門系の実践者で、勝手な判断でもって自分以外に何も認めず、客観の仏像や先祖供養などを蔑ろにする例は多くある。

 臨済宗の夢窓疎石禅師は仏像などを蔑ろにするなと云っておられる。

 仏在世の時は、生身の如来を仏宝と名づけ、その金口の説法を法宝と称し、その仏化を助給ひし賢聖を僧宝と号す。仏滅後、末法の時は、木像・絵像等を、仏宝と敬ひ、文字に書き伝へたる経論を法宝と信じ、髪を剃り、袈裟をかけたる者を、僧宝と崇むべし。これ則ち、末世住持の三宝なりと、聖教に定め置けり。真実の三宝は、塵沙法界に遍満し給へども、末世に生れたる人は皆宿善薄き故に、かやうの仏僧を拝むこともなし。その法門を聴聞することもあたはず。しかれども、絵にかき、木に刻める仏像を礼拝し、文字にて書き伝へたる経論を受持し、髪を剃り袈裟をかけたる僧侶を供養し給ふは、ありがたき善縁にあらずや。釈迦の法は滅亡し、弥勒はいまだ出で給はざる、二仏の中間に生まれたらむ人は、三宝の名字をだにも聞くべからず。いはんや今のごとくなる善縁をも結ばんや。もし人末世の住持の三宝を供養せらるる信心の深きこと、仏在世の三宝を供養せし人変はらずは、功徳を受くることも亦変はるべからず。然らば則ち、僧宝の衰へたることを、そしり給はむよりは、自身の信心の古へに及ばざる故に、仏法をも軽忽し、僧侶をも誹謗して、罪業を招く因縁とはなれども、功徳を得る福田にはあらざることを歎き給ふべし。もし今時の僧は、羅漢菩薩のごとくにもあらず。大師先徳にも及び奉らずとて捨て給はば、何ぞただ僧法のみならむや。いかばかり結構して造り立て、絵かき奉る仏像も、生身の如来にこれをたくらべ奉らば、百千無量の一分にも及ぶべからず。真実の法門は、文字言説を離れたる故に、書き伝へたる経巻は、真詮にあらず。しかるを、真仏真詮にはあらぬ仏像経巻をば、さすがに信心を致し給へる人も、僧宝をば真僧にあらずとて、一向に嫌ひ捨て給ふこと、その謂れあるべしや。もししからば、末世の住持の三宝は、唯二宝のみありて、一宝は欠けぬべし。もし又、末世の住持の三宝は、皆いたづらごとと申されば、これ則ち、天魔外道なり。とかく申す及ばず。

『夢中問答集』川瀬一馬〔訳注〕講談社学術文庫

 先祖供養については、『涅槃経』に七不退法のひとつとして説かれる、

 しからば、アーナンダよ、ヴァッジの人々が、城の内外のヴァッジの廟を敬い、尊び、崇め、大事にして、以前から与えられ以前からなされていた法にかなえる供養を廃することのない間は、アーナンダよ、繁栄が期待せられ、衰亡することはないであろう。

『阿含経典3』増谷文雄〔訳〕ちくま学芸文庫

 上記のように禅門であろうと上座系であろうと『因果物語』の禅僧のような態度を肯定されてはいない。
 現代ではこの禅僧のような意識で仏教を据える人が多いのではないか、これは完全なる外道であり、よくよく気をつけなければならない。

南無帰依仏
南無帰依法
南無帰依僧

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