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【寓意】増殖
僕は自分のうなじに手をおいた。指先はひんやりと冷たく、鏡は氷のようだった。
今朝、祖母と床屋へ行った。その床屋の店主は祖母の昔からの友人で、いつでもポマードの香りがしていて、襟足はきっちりと切りそろえられ、清潔に保たれていた。
店主は僕の姿を見るなりにっこりと微笑んで
「きみは相変わらず線が細いね、もうすこし筋肉をつけないといけない」と言った。いつもの挨拶だった。
余計なお世話だ。生きているし、生活できる筋肉はついてるんだ。でも、僕はなにも言わない。黙ってうつむくだけだ。祖母を悲しませたくはない。
僕の首は細くて長い。女子みたいだと言われるのを気にして、髪の毛で隠していた。僕なりの方法だったし、周りの大人たちに対する抵抗だった。
なのに、それらはいとも簡単にバッサリと切られ、冷たい床に散らばると、ホウキで掃かれて捨てられた。
僕の中に、もっと勇気と力があればよかったのに。
氷の鏡にうつる自分の姿を傍観者のように見つめた。
「だいじょうぶ、きみはじぶんがおもっているよりつよいよ」
どこからか、声が聞こえてきた。
ぬるい風とともに、ポマードの香りが漂ってくる。
鏡にうつる店主と僕。
僕自身をバラバラにした刃は、僕の味方にもなる。
「どうしたんだい?忘れ物かな?」
床屋の店主はタオルを手に取ると、角と角をきっちり合わせている。
「あ、はい 友だちからもらったバトルカードが落ちてないかな、と思って」
僕は店主の襟足をちらと見た。バトルカードはズボンのポケットのなかにある。
「君が帰った後、なにもなかった気がするがね、まあゆっくり探していきなさい」
次に、たたんだタオルは、壁に取り付けられている棚まで運ばれ、一枚一枚丁寧に入れられていった。その間店主は、一度も僕と顔を合わせなかった。
僕に、なにが正しいのか教えてください。本当は大きな声で叫ぼうとおもったが、やめておいた。
鋭く光るハサミを手の平で優しく包む。思ったより温かくて僕は一瞬たじろいだ。でもそれは一瞬のことだ。
真っ白な世界で僕は笑っている。
氷の鏡はピシッと音を立て、やがて溶けていき、そこにだけに水たまりができた。美しい褐色だった。それから、すべてのハサミを床下に埋めて、僕は此処を出た。
最期、店主はやっと僕の顔を見た。なぜ?という表情は滑稽だった。
家までの道には川が流れている。僕は橋の上で立ち止まり見下ろした。太った黒い鯉が川の流れにうねりをつくっていた。寂しい大人が、定期的にどこからかパンのみみをもらってきてやっているのだ。鯉はどこまでも増殖し続け、パンのみみだけでは足りなくなるだろう。
僕はポケットに手を突っ込んで、バトルカードではない方を掴んで、川に放り投げた。お腹を空かせた鯉たちがよってきて、それらは、うねりの中に消えていった。
あとがき
子どもにとって親や家族は第一の環境であり、幼い頃は特に絶対的存在であり、唯一の居場所。子どもは、それを失いたくないがために、自分自身を傷つけることがある。そんな確実にある現実を、大人たちはもっと知っておいた方がいい。