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『東京焼盡』を読みました

内田百閒氏の本は若い頃何冊か読んだはず?なんだけど、肝心の内容は忘却のかなた。覚えているのは、読者にも時流にもおもねらない、独自の視点を大切にする人という印象と、心の中で好きな作家に迷わず分類したことくらい。
『東京焼盡』(中公文庫)を手にしたのは東京大空襲に関する内容だったから。長年に亘る氏の日記の中から、東京大空襲前後を抜粋したのがこの本。母が戦争体験をブログに書いているので、参考にしてみようかと。
が、読み始めたとたんに後悔。
日記というより、これって単なる覚書き?

〇月×日 〇時×分空襲警報発令、×時〇分解除…
×月〇日 誰それが△△を持ってきた。家内が配給で××を受け取る…
△月〇日 昼から出社、夕方省線(現JR)で帰る…

そっけない記述がこれでもかと続く。だんだんとまぶたが…けれど読み始めた本をどうしても途中で投げ出すことができない私(『カメラを止めるな!』みたいに最後の最後に何かが待っているかも?)。
我慢して読み進めていくと、不思議なもので大して変わり映えのしないはずの記述の中から、徐々に氏の人となりが浮かび上がってくる。
例えば、大酒呑みというわけではないけど、お酒が大好きらしいとか。
あっという間に底を尽く配給のお酒。そこへタイミング良くビール片手に知人が現れれば、よくぞ来た!と手放しで大喜び。すぐに宴会が始まる。奥さんがつまみを作る時もあるが、戦時下ゆえ何もない時は味噌が肴?とちょっと侘しい。
焼夷弾が雨あられのように振ってこようが、お酒だけは手放せない。
 
昨夜気分進まず飲み残した一合の酒を一升瓶の儘持ち廻った。これ丈はいくら手がふさがてゐても捨てて行くわけに行かない。
 
一升瓶片手に猛火の中を逃げ廻る人はなかなかいないのでは?
 
苦しくなるとポケットに入れて来たコップに家内についで貰って一ぱい飲んだ。(略)朝明るくなってからその小さなコップに一ぱい半飲んでお仕舞になった。昨夜は余りうまくなかつたが残りの一合はこんなにうまい酒は無いと思った。
 
こうした飾らない記述が随所にあるものだから、読んでいてだんだん愉快になってくる。
そんな氏はタバコも大好き。
配給では足りないし、好みの銘柄が来るとは限らないから、よく奥さんをタバコ屋に遣いに出す。そういえばこういう遣い走りって昔は子どもや奥さんの仕事だったなあ。
職業柄か戦時中のせいだからか、職場に通ってはいるものの、気ままな出社。
今は奥さんとふたり暮らしだが、息子さんがふたりいて長男はすでに亡くなり(戦死?)、次男が近所住んでいる。
老夫婦の元を、飲み仲間や仕事仲間が土産片手に、何かにつけ様子を見に来てくれる…などなど、氏を取り囲む風景が次第に明らかになってくる。
 
そんな中、驚いたのは奥さんが体調を崩して寝込んだ時の記述。
 
水を汲みに行きお米をといで火を起こして御飯を炊くのは家内が寝てゐては如何ともすべからず
 
え?思わず二度見してしまった。
奥さんが寝込んでたら自分ではご飯炊けないの?
決して奥さんは話もできないほどの重病ではない。一つずつ順に指示してもらえば、やってやれないことはないんじゃない?手順はちゃんと頭に入っているふうだし。
いや、やっぱりできないのか?
できないというか、やったことがないというべきか。
当時の裕福な階級の男性は、もしかしたら生まれてこの方ご飯を炊いたことも、炊こうと思ったことも、一度もないのかもしれない。
この時氏はすでに50代半ばのおじさん。
今さら急にやれと言われても、右も左もさっぱり分かんない状態なんじゃないか。そう考えると、ご飯は確かにハードルが高めかもしれない。
しかし次の記述に至っては、納得できないのは決して私だけではないはずだ。
奥さんは依然寝込んだままの状態。
 
今日も亦朝から一日温かいお茶が飲めず水で我慢する。
 
ちょっと待ってよ!
お湯が沸かせないってこと?
ご飯炊くほどややこしいこと何もないでしょう。やかんに水入れて火にかけ、急須に茶葉を入れて、沸騰したお湯を注ぐだけ。
なんでそれができない?
一連の作業が面倒とか、男の沽券にかかわるとか、というのもあるかもしれない。
けど、ご飯の時と一緒で、もしかしたら本当にできないのかなとも思う。
悲しいかな、たぶん氏は「男子厨房に入るべからず」を地で行く世代なんだろう。そうやって全てを奥さん任せにしてきたから、いざという時手も足もでなくなってしまう。
あるいは台所は奥さんの聖域で、男が無暗にズカズカと土足で踏み込むものではない、みたいなタブー感もあるのか?男性が女子トイレに入るのが憚られるみたいな?しかしそれにしても…
 
度重なる空襲で焼け野原になった東京。遠く地平線まで見渡せてしまう荒涼とした光景を目の当たりにして、氏は次のように思う。
 
戦争だからこんな事もあると諦めてゐる丈では片附かない様である。敵が憎いよりも、見方が意気地がないと嘆ずるよりも、馬鹿気た話だと思ふ事切なり。
 
同じ人間同士が争うことの不毛。
市井の人々がコツコツと積み上げてきた歴史が一瞬で灰となってしまう虚しさ。
敵を憎んで終わらせるのではなく、もう一歩上の高みから、争うこと自体を馬鹿げてると嘆息する氏。
その後氏は住み慣れた家も焼かれた。
 
(家に)未練もあり心残りもあるけれど仕方がない。
 
案外、淡々としている。
が、淡々としているだけではない。
 
二階の書斎の大机のまはりや、本箱の抽斗や押入の中や茶の間の廊下の小さなテーブルの上や、その他整理しなければならぬ片附けなければならぬと常常さう思いながらいつ迄たつてもどうにもならなかつた煩ひを、一挙に焼き払つてしまひ実にせいせいした気持である。
 
びっくりしちゃう書きっぷりだけど、以前から氏は同じようなことを夢想していたらしい。
古い家は家財ごと燃やしちゃって、何もないまっさらな家に移りたい。必要な物はその都度買いそろえていって…と。それほど溜まったモノの整理には日頃から頭を痛めていたようだ。
とはいえ、これは常人離れした感覚かも。
 
四谷駅の燕の雛はどうしたかと思ふ。
 
空襲のあと、燕の雛の安否を気にする氏。
 
駅の麹町口の燕も無事だつた様である。
 
妻とふたり焼け出され、人様の物置に住まわせてもらうような厳しい生活の中、こういうまなざしを失わないところも結構好きかも。
氏とともに戦中生活を体験するうち、初めは退屈でたまらなかった記述が、いつの間にか地味に楽しみになっていた。
ふいに残りページが少なくなっていることに気づいて動揺。間近に迫りつつある氏との別れがたまらなく寂しくなってくる。
本全体から否応なしに立ち上る昭和の懐かしい匂いも、切ない気持ちに拍車をかける。
冷蔵庫もクーラーもプライバシーもなく、男尊女卑がまかり通る、決して豊かでない時代。
不便だった当時に戻りたいとは決して思わないのに、氏の生きた日々は、私の生きた昭和の頃と確かに地続きにあると、懐かしく思い返されて、離れがたくなってしまうのはなぜだろう。
ラストが知りたくて早く読み終わりたい本もあれば、いつまでも物語世界に浸っていたいと名残惜しい本もある。
この本は間違いなく後者。
途中で投げ出したりしなくて本当に良かった。
 

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