ジェンダー平等が当たり前になったところで表現の自由は拡大されない
どうも、虚無の先と名乗らせていただいている者です。
このようなツイートがありました。さすがに思考が甘えすぎであると言わざるを得ないので、反論していこうと思います。
1:「ジェンダー平等がごく当たり前」の判定方法
まずこの質問から始めます。
今、この瞬間が「ジェンダー平等がごく当たり前」である可能性をどのように否定しますか?
これは筆者の経験則に基づくものですが、おそらく、フェミニストの皆さんは「ジェンダー不平等であるとの声が存在しない状態」をもって「ジェンダー平等である」と判定すると考えます。ゆえにおそらく今は「ジェンダー平等が当たり前」ではないのでしょう。フェミニストは主観的な理想状態でないという声でしかジェンダー平等かどうかを判断できないんです。ジェンダー関連の指数や科学的根拠はフェミニストが自身の意に即したものしか信じてこなかった実績がありますので、あなた方はジェンダー平等の判定方法として使っていません。結論からそれに即する根拠のみを持ってくることしかしていないのがフェミニストの現状です。
そして、日本国憲法の上ではジェンダー平等は成立しています。「法の下の平等」という概念ご存知でしょうか?義務教育にもあるのでTwitterが使用可能な年齢ならおそらく知っているでしょう。が、中学3年生でまだ習っていないという読者がいる場合のために(Twitterの年齢が14歳以上である以上あり得るので)憲法第十四条を引用しておきます。
憲法第十四条をまるまる持ってきたので2と3は無視しても構いません。ただ、実情としてジェンダー平等が成立していないという声があるのは事実です。そんなもんこちらでも否定しようがありません。ではこの制度上ジェンダー平等であることとジェンダー不平等であるとの声が両立するのはどういうことなのでしょうか?これはジェンダー不平等であるとの声は主観的、個人的なものであるということです。
例えば、男性が女性の重い荷物を運ぶという行為をした場合、それは、労働の効率として高い行為をしましたが、ジェンダー平等からは外れる行いです。もちろん重い荷物を運んだ男性は良かれと思ってやったのかもしれませんが、「女性だから重い荷物を持たせてもらえなかった」とジェンダー不平等であるとの声を発することは理論上可能です。それがムーブメントを起こす可能性はゼロではありません。また、これは社会全体が関わることではありません。ただその男性と女性の間で起きたことです。これは、アメリカにおいて憲法上有色人種に対する差別が無くなったとしても、アジア人である筆者が個人の規模で差別を受けたところと通じます。もっとも筆者が受けたものは悪意でこの例は善意ですが。アメリカは理論上平等です。が、個人の思想の自由が憲法によって担保されている以上、個人スケールで不平等な扱いを受けないなんてことは他人の思考に介入して、差別的思考を取り除くぐらいしか手法があり得ません。そうなると思想の自由に抵触します。
ゆえに、「ジェンダー不平等であるとの声が存在しない状態」は二つに場合分けできます。一つ目はジェンダー平等が実現した場合。二つ目はジェンダー不平等であるとの声が封殺された場合です。そして、筆者は二つ目によって「ディストピア的ジェンダー平等」と呼ぶべきジェンダー平等が為される可能性が高いことに危機感を感じています。その理由は一つ目のような社会全体でジェンダー平等が数値上、および理論上、為されたとしても個人スケールでジェンダー不平等を感じる機会はありうる点と、今、ジェンダー不平等を感じ、それをSNSに発信した方が受ける反感の規模が大きくなっているという点です。ちなみにその原因はジェンダークレーマーになります。
なので、「ジェンダー平等が成し遂げられた!」となった場合、それはジェンダー平等が成し遂げられたわけではなく、ジェンダー不平等の声が完全に封殺されたからではないのでしょうか?そして、その「個人スケールまでのジェンダー平等」という不可能な目標が達成されるまで表現の自由を制約する必要があるというのであればそれは汐街コナ氏は表現の自由の敵であると言わざるを得ません。
2:「表現の自由領域」について
「表現の自由」というと拡大、縮小という言葉が合わないため具合が悪いので、「表現の自由領域」というものを定義します。これは表現の自由の範囲内として表現できる範囲のことです(範囲なので表現の自由という言葉で使うことが適切とは言い難かった拡大、縮小という表現がやっと適切になります)。ゆえに、汐街氏の「表現の自由は拡大される」は表現の自由領域の拡大と解釈します。日本国憲法第二十一条から引用します。
ただし、ここで、法律によって禁止された表現の自由領域の外にあるものがあります。実在青少年の児童ポルノや、無修正の猥褻物などが当てはまります。また、慣習によって表現することがためらわれるものもあります。そして、決済手段による制約、プラットフォームによる制約もあります。それらは表現の自由領域のグレーゾーンとでもいうべき領域になります。
逆に言えばそれ以外の表現はすべて表現の自由領域内です。エロでもグロでもきったないものでもなんでも表現することは自由です。筆者としては多すぎて何が中にあるのかが書きづらくて仕方がないです。だから、境界に近いだろうものを選びました。まあ書きづらいほど多い方が良いのでここで書きづらいことぐらい気にすることもないですが。
では、ここでジェンダー平等に社会が動いた場合を考えてみましょう。ジェンダー平等に向けて表現の自由が拡大する方向に法律が動くことは考えづらいです(縮小の方向におそらく動きます)。なので、法律は表現の自由の拡大方向には動きません。プラットフォームでも、決済手段でもジェンダー平等に向けて表現を規制すべきという主張が何度もなされた以上、表現の自由領域が拡大する方向に動くとは考えられません。では、「ジェンダー平等が個人スケールで実現した」場合、表現の自由領域は拡大しますか?いえ、しません。
それどころか逆に「ジェンダー平等が実現した」場合はジェンダー不平等であるとの声が消えてる(=タブー化=表現の自由領域のグレーゾーンにはじき出されてる)可能性が高いので表現の自由領域は「ジェンダー不平等である」という表現の分だけ縮小しています。また、絶滅した生物が復活するのと同じレベルで「ステレオタイプを強化する表現」が復活する可能性が低いです。ただし、文化的遺伝子(記憶)は当代のうちなら受け継がれているので、遺伝子が現存する生物を現代に復活させる程度の難易度(マンモスなどを復活させるぐらいの現実的な難易度)になります。が、汐街氏が数十年から百年単位のスパンで考えているなら、人の代が変わり(寿命が百数十年単位まで伸びたら別ですが、おそらく人の代が変わらないとジェンダー平等にならないと想定できるので人の代が変わると仮定します)文化的遺伝子が断絶するので、恐竜を復活させる程度の難易度になります(今の技術でできる見通しが立たないぐらい)。そんな状況で表現の自由領域が拡大すると言える理由は全くありません。
最後に
我々はニンジン付きの棒に向かって突き進む豚ではありません。それどころかそのニンジンも偽物だったらおそらく豚でも追いかけないでしょう。もし「ジェンダー平等」を実現したいのであれば、どこまでの主観的なジェンダー間の不平等を許容するのか、フェミニストが不可逆的に統一された意思を見せなければ、もう進まない段階にきているのかもしれません。表現者は信じられない量の犠牲を払いました。あなたの番です。
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