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かもめは飛んでいるか 少考1 薄井快
魅力的なセリフたちが、あるいは沈黙が見知らぬ角度から鋭くさしこんでくるので、しばしば手をとめながら読みました。『かもめ』公演をもりあげようとこれからいくつか『かもめ』のテキストについて記事を書いていくつもりですが、まずなにからはじめるのがいいでしょうか。
まず個人的な『かもめ』体験から、今、この時代に、いやこの私がこの古典を読むにあたってなにがささるのかっていう素直な所感からビブリオトークをはじめるのがいいでしょう。大それたことは語れません、わたしが読んだ戯曲は諸手で数えられるぐらいですけれど。
湧いて出てくる間(ま)
『かもめ』には大きく二種類の「間」が登場します。まずは余韻の「間」で、劇中劇のシーンや独白がつづくシーンで緩急をつける役割を果たしています。これはこれで雰囲気があって味わい深いのですが、わたしが注目したいもう一つのはコミュニケーション障害の「間」。やさしさの「間」と言い換えても、気まずさの「間」と言い換えてもいいです。
後者の「間」はすくなくとも読書体験として『かもめ』に特殊な湿度をもたらしてくれているように思います。はじめて「間」が登場するシーンを引用してみます。
マーシャ そんなのどうでもいいことよ。(嗅ぎ煙草をかぐ)あたしのことを思ってくださるのはありがたいけど、あたしにはその気がないだけ。ただそれだけのことよ。(嗅ぎ煙草を相手に差し出して)おひとついかが。
メドヴェジェンコ いや、結構です。
間。
マーシャ 蒸すわね。きっと夜はひと雨来るんだわ。あなたの話はいつだって小難しいか、お金のことばっかり。口を開けば、あなた、貧乏ほど不仕合せなことはないとおっしゃるけど、あたしに言わせりゃ、ボロをまとって物乞いに出たほうが千倍もましだわ……。こんなこと言ったって、あなたには通じないでしょうけれど……。
(※新潮文庫の神西清訳だと「間」はセリフの後に(間)とついて処理されています)
このシーンの直前でメドヴェジェンコは自分の熱烈な愛をマーシャに訴えていますが、詳細はさておいてもそれは片思いなわけで、完全なすれちがいシーンです。してみるとこの「間」は2人の気まずい空気をたっぷりふくんでいます。マーシャは鬱陶しい求愛から話を逸らすために嗅ぎ煙草をすすめますが、メドヴェジェンコはその手にはのらないよとお断りしてこのラグ、とでもいうべき気まずい「間」が生まれるわけです。そしてマーシャは天気についての小言を泳がせてからめんどくさそうに男を振る口実をならべます。ちょっとした笑いどころかもしれません。
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要するに言葉がすっきりとでてこない「間」が登場人物のすきまをぬって湧いてでてくる瞬間、コミュニケーションは失敗して修正が図られている。このすきまが『かもめ』の停滞感、物憂げな心象を克明に刻みつける演出法なんじゃないかって、例えば次のシーンを読んでより感じます。
ソーリンの鼾(いびき)が聞こえる。
ドールン 白河夜船ですな。
アルカージナ 兄さんっ!
ソーリン あ?
アルカージナ 寝てらっしゃるの?
ソーリン いや、ぜんぜん。
間。
アルカージナ 兄さんは病気なんだから、ちゃんと治さなきゃダメよ。
ソーリン 治したいのはやまやまだが、この医者(せんせい)が診てくれなくってね。
笑えるけどちょっとおそろしい。会話はスムーズに運ばれない。コミュニケーションがズレる。アルカージナは「ごめん寝てたよ」なんて兄がこたえれば安心できた、期待が満たされたわけです。けど意図しない返事がきて、口がフリーズしちゃいました。お互いに相手を見ていないからでしょうけど、『かもめ』にはこんな「間」がたくさん登場します。なにごとかが挿入される。みんななにかに疎外されて迂回路をたどるはめになっている。阻まれている。なにに?
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さてなにに? なにごとか、というのがかもめの大問題ではないでしょうか。みんななにごとかに阻まれて、この「間」が蝕んでくる停滞に甘んじているのでしょうか。すっきりしているなら、「いや、ぜんぜん」の直後に妹はぶつぶつ文句を言っているべきなんです。そうすれば立派にコミュニケーションがなりたっている。だけど奥歯にものが挟まったみたいな「間」がいやらしくなにかを訴えかけてくる。
いよいよ度し難い現実として『かもめ』がわたしに迫ってくる。
トレープレフ 伯父さんは田舎暮らしが合わないんだ。淋しいんだよ。もし母さんが奮起して、伯父さんに千五百か二千ルーブルでも貸してあげたら、伯父さんはまる一年町で暮らせるんだがなあ。
アルカージナ 私、お金がないの。私、女優でしょ、銀行家じゃないの。
間。
トレープレフ 母さん、包帯をかえてくれないかな。母さん上手なんだもの。
アルカージナ (薬棚からヨードフォルムと包帯の入った箱を取り出す)医者(せんせい)遅いわね。
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事を荒立てたくないみんなが必要以上の接触をさけている「間」で、コミュニケーションの修正が図られています。「間」を経たコミュニケーションはいちおう回復する。センシティブな言葉でできた亀裂は、湿ったゲル状の組織がゆっくり閉じていくみたいに治癒して静かに受け流されます。気まずさを含みつつも互いの配慮で傷は閉じています。有機的な集団のもつ自浄作用が働いていて、登場人物みんながまるで一つの生命体の各器官のようで、あるいは群で、まとまって延命している。
「間」がなすたっぷりの沈黙には『かもめ』の登場人物をもれなくからめとる情緒、気分、エートスがあらわれていると思います。というよりこの情緒が横たわっているところにみんなが居合わせていて、なにか亀裂ができかけるとこの情緒が魔物みたいにはりだしてこれ以上傷が深くなるのを防いでおさめてしまうようです。すでにみんな傷ついている。いたわりあうことで日日を延命しているようなみんなは、疲れている。わたしには傷つき疲れているように見えます。みんな。
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なぜ? どうして疲れている? 自然の摂理だと、わたしたちに仕組まれたプログラムだと言える気もします。蓋し現代、わたしたちは疲れているんじゃないでしょうか。あまりにも無意味なことだからあえて問いただしてみるわけじゃないけれど、すくなくともわたしに迫ってきた『かもめ』には祭りがなくて、時間そのものが疲れている。わたしたちが生きていかなければならない日常そのものとして疲れている。わたしもたちもまたしばしば、友人たちと傷つかないために言葉をひっこめあう瞬間をもちます。すばらしく前途洋々たる友人の大学生たちはなぜかいつも疲れていて、傷つかないためのテレパシーを洗練させてみんな、ときに心やさしく臆病なまなざしは距離をはかって、喉まででかかったフレーズをキャンセルする。言葉のこわさを知るあまりに言葉をなくしてしまいました。これ以上の深さを安全につたえる技術はありません、無関心をよそおって新鮮で無害なテーマにスライドする。数秒の間、でワンクッションおいて。絆を延命する。これ以上傷つけあったら疲れた時間が悲鳴をあげて破れてしまうから、やさしさの皮をかぶせて、ほんとうは暴力的なコミュニケーションを無視する。痛みわけの気づかいで、まだわたしたちはなんとかやっていけるよね。みんな、無益に傷つけあうほど強靭な時間をもってなんかいない。あなたはやさしさと臆病で拒絶する。もう関心がありませんこれ以上は勘弁してくださいって沈黙して、間、が臨戦態勢をつくるポーズをくじいちゃう。もうめんどうだよこれ以上は言葉をだせないよって、くじいてくれる。わたしも黙る。どうして? わからない、だって、なんとなく、これ以上はめんどうだから。言葉は殴りあうためにはないでしょう? それだけじゃふやけてしまうのは知っている。けどもう相手はそうそうに武装解除してるんだから、そんな無関心にむかって舌を回して唾をちらすのバカみたいじゃん。OK、あなたがあなたならわたしもわたしで、わたしだって疲れているから!
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生きることは疲れていることだと、疲れは存在理由だとでもいうかのように。だから片田舎からモスクワに行っても東京に行ってもこの疲れからは逃れられないでしょう。問題は場所にはなくて、わたしたち自身の生きている時間にあるのでしょう。そうして言葉は翼ではばたく力をなくして、なんとなくわたしは泣きたくなる。
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トレープレフは最後に自殺しましたが、ここでようやく物語の火ぶたは切って落とされることになります。あんまりやさしくて、臆病で、無関心で、暴力的だから死んじゃった。「間」がどこからともなく湧いてできて、トレープレフをつつみこんで永遠のどこかへひきずりこみました。死はセンセーショナルだし祭りはきっとはじまるだろう、けどすくなくとも今は、みんなもう話したくないんだ、時間が緊張して祭りが始まる瞬間に幕はおりて、二度とあがらない。
うすい・かい 地点インターン。京都大学大学院文学研究科哲学専修修士。
Photo: Kyo Kim