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かもめは飛んでいるか 少考3 薄井快
トレープレフ 必要なのは新しい形式です。新しい形式が必要なのであって、それがないなら、いっそ何もないほうがましだ。
この記事は「読む『かもめ』」をテーマに、3月の『かもめ』公演をもりあげようと書かれています。魅力的なセリフを紹介しつつ、『かもめ』をとらえなおしてひきうけなおしてみるつもりで書いているのですが、3回目になって思うのは、『かもめ』は今日を生きるわたしたちの演劇性を凝縮した戯曲だということです。『かもめ』を動かすチェーホフの強固な洞察は1世紀後の日常を生きるわたしたちを見事にからめとって、わたしたちがわたしたちであるドラマを静かにうつしだします。劇的ではないドラマの表面性にわたしたちの存在はすくいあげられます。現実を生成消滅する記号としてのわたしたちがものの見事にすれちがっている様をうつす――『かもめ』の存在論は、やはり人生を肯定する喜劇であるでしょう。
でも強固でしなやかなあまり、それが既にちょっと古いかもしれないのに普遍的なあまり、わたしたちは『かもめ』のスタイルで安心しすぎているのではないでしょうか? すばらしい密度でつつみこんでくるから、もうこれが正解だよね、と安心して退屈している。でも時はすすむし、物事はかわる。知らず知らずのうちに『かもめ』は軋んで、もうそろそろ限界がきている。わたしたちはあたらしい心の秩序をもとめている。とすれば、『かもめ』はのりこえられなくちゃいけないのかもしれません。でもどうやって? わたしたちが明日を生きるヒントとしての『かもめ』をみつけなくちゃいけないとして、いったいどうすればいいんでしょうか? はたしてあの密度からのがれる突破口はあるのでしょうか?
なにはともあれまず破らなくちゃいけないあの密度の正体とは、蓋し淡々としたスタイル、すれちがいのスタイル、ささやくようなスタイル、抑圧的なスタイル、あののがれがたいスタイル、現実的なスタイル……
新形式
作家志望の青年がひとり、明日を生きるためのスタイルをさがしている。既存のスタイルの腐敗を怒り、訴えています。自分の母と、母が活躍している現代の演劇シーンを手厳しく批判しています。
トレープレフ それにあの人は、ぼくが今ある演劇を認めていないことも知っている。あの人にとって、演劇は崇拝の対象で、自分は人類や崇高な芸術に奉仕しているつもりなんですが、ぼくに言わせれば、現代の演劇なんてたんなる決まり事、それこそ偏見のかたまりにすぎない。
青年らしい、とげとげしくいきおいある言葉で刺していきます。いつか自分の青さに顔を赤らめる日がくるかもしれませんが、ステレオタイプの反復運動に辟易しているみずみずしい感性はひとつの現実を率直にうつしています。
幕が上がると、薄明りに照らされ、三方壁に囲まれた部屋があって、そこで偉大な才能とあがめられる連中や、崇高な芸術の申し子たちが、飲んだり食ったり愛したり、人がどんな歩き方をし、どんな背広をお召しになっているかを、ご丁寧にも見せてくれる。観ている連中も観ている連中で、そんな下劣な情景やせりふから、もっともらしいモラルを引き出そうとやっきになっている。モラルと言っても、ご家庭にあって重宝といった、体裁のいいちんけなモラルにすぎない。手を変え品を変え見せ方は変えても、持ち出してくるのは相も変わらず同じことのくり返し。そうなると、ぼくなんか、尻尾を巻いて逃げ出したくなる。あの俗悪な美にうなされて、エッフェル塔からすたこら逃げ出したモーパッサンみたいにね。
さまざまもっともらしいことをいっているけれど、うだつのあがらない自分と退屈で変わりばえのない演劇界を重ねあわせて駄々をこねているだけのようにも見えますね。それでも、自分をむかえいれてくれない大人たちのつまらない世界をどうにか壊してやりたいという若者の危うく先のとがった自信だけはほんものです。もうこんなのこりごりだから、新しい世界をみせてやる、この因習にまみれた腐敗をうち破らないのならいっそなにもないほうがましだ、というわけです。けど、自信満々だけどこの青年の才能は疑わしい。ほんとうのところ世間をあっといわせる革新的なアイデアもプランも形にはなっていない。このままではつまらないことはわかっている。でも今の形式はゆるせないから、トレープレフはそれを必死に母の問題におしつけてやり過ごそうとしているわけです。
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ソーリン なんのことはない、お前は自分の戯曲が母親の気に入らないときめてかかって、自分でやきもきしているだけだよ。そう心配しなさんな、母さんはお前のことを大事に思っているさ。
わかっているのにみつからない、知性が感性においつてこない焦りと苛だちにかきたてられるままに彼は、自作の演劇を披露します。
結果は惨々でした。どんな劇だったのかはさておき、観客の大人たちはまともにとりあってくれないで茶々をいれ、とくに母のアルカージナのふざけた態度に我慢ができず、とうとう途中で投げだしてしまいます。
トレープレフ もうたくさんだ! 幕だ! 幕を下ろせ!(足をドンと踏み鳴らして)幕だ!
幕が下りてくる。
失礼しました。芝居を書いたり、それを舞台で演じることができるのは、ほんの少数の選ばれた人たちだということを、ぼくは失念していました。ぼくはその掟を破ったわけだ! こんなこと……ぼくは……。(まだ何か言い足りないようすだが、呆れたふうに腕を振り下ろして左手に退場)
脆く儚い自尊心が挫かれてしまいました。
母は母で、そんな息子の攻撃的な挑発に腹をたてています。彼女には彼女の審美眼があって、それをおびやかそうとする輩には手厳しいのです。
アルカージナ ふうん、要するに、あの子は大した問題作を書いたわけね!大きなお世話よ! つまりあの子がこのお芝居を上演したのも、硫黄の匂いを振りまいたのも、一夜のお慰みじゃなくて、目にもの見せてやろうという魂胆だったのね……。どんなふうに作品は書かなくちゃいけないか、何を舞台にかけるべきか、それを私たちに教え諭そうとしたわけね。それにしても、うっとうしいじゃない。しょっちゅう私に嚙みついたり、お説教をたれたり、そんなことはあの子の勝手だけれど、そんなの誰もうんざりよ。わがままな、思い上がりだわ。
息子の試みそのものを断罪します。青二才がなにをいってるんだ、お前のやっていることはただの世迷言だ、と。だれだって物も知らない若者からとやかくいわれたらいい気分はしませんから、アルカージナの反応は至極当然ともいえます。ただそこには自分の居心地のいい形式をめぐる精神の攻防があるということも見逃せません。双方がポジショントークをしているからほんとうのところなんてありやしないのでしょう、空白のまわりで椅子とりゲームをしていて、形式の対決があるのみです。
アルカージナ そうかしら? それなら普通のお芝居でも書けばいいのに、あんなデカダンじみたお念仏を私たちに聞かせるなんて。座興だというのなら、私だってお念仏に耳を傾ける気はあるけれど、あれは、やれ新しい形式だ、芸術における新時代の幕開けだという高飛車な物言いじゃない。私に言わせりゃ、あそこに新しい形式なんてありません。あるのはたちのわるい冗談だけ。
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第三幕でも喧嘩しています。
トレープレフ (皮肉っぽく)けっ、本物の才能だってえ!(憤然と)こうなったら言わせてもらいますがね、母さんたちよりぼくのほうが才能は上だ!(頭から包帯をはぎ取る)母さんたち、古くさい人間は芸術界を牛耳って、自分たちがやっていることだけが正統で本物だと考え、それ以外の者を追い出し、息の根を止めているだけだ。ぼくは母さんたちなんか認めませんからね! 母さんもあの男も、認めるもんか!
アルカージナ デカダンかぶれ!
トレープレフ 母さんなんか、あのなつかしの劇場に帰って、そこで哀れでぼんくらな芝居でもやってりゃいいんだ!
アルカージナ そんな芝居をやったことなんか、一度もないわよ。私のことはほっといて! お前こそろくなボードビル一本書けやしないくせに。何よ、キエフの町人! 脛っかじり!
自然界の縄張り争いを彷彿とさせます。みにくい争いですが、この母子をみつめるチェーホフのまなざしをひきいれてみると、トレープレフとアルカージナの形式をめぐる対決にはメタフィクションの地平がひらかれてくるようでもあります……。
ところでトレープレフはなにをめざしていたのか? トレープレフの試み自体は残念ながら失敗してしまったようですが、彼のいう「新形式」とはなんだったのか?
ニーナ あなたのお芝居って演(や)りにくいわ。生きた人間が出てこないんですもの。
トレープレフ 生きた人間かあ。芝居で描き出さなければならないのは、ありのままの生活でもなければ、そのあるべき姿でもなく、夢のなかにあらわれてくる生活なんだ。
ニーナ あなたのお芝居って、動きが少なくって、ただ読み上げるだけでしょう。私の考えでは、お芝居にはかならず恋愛がなくてはいけないと思うの。
夢のなかにあらわれてくる生活――青年にとっての形式とはシンボルが領(し)るところといった具合で、生きた肉にたよらない朗読劇になります。つまり言葉とそれがもたらす観念の世界を自由に展開してみたかった。世紀末を生きる人間の内面を演劇で表現したかったのでしょう。ちょうど19世紀末、フランス・ベルギーを震源にヨーロッパでは象徴主義の芸術運動がおきていたことを鑑みると、トレープレフの一連の挫折は当時流行の芸術形式に対するチェーホフのロシア的転調にも読めてくるようです。
トレープレフが世紀末の青年らしく継投したデカダンスですが、現状の生活スタイルにすくなくとも意識的には満足している人々にはまったくといっていいほどささりませんでした。このロシアの土地で立派に生活をして大地の子をしているわたしたちにそんな観念的な説教をされたってなにも響きませんよ、いつだって大切なのはきちんと生きていくことなんですから。リアリズムとシンボリズムの溝はどうもうまりそうにないのです。そんなうわついたやり方に惑わされはしませんよ、だってわたしたちはこの大地できちんと生きてかなくちゃいけないんですから。肉の感覚をもってきちんと、やっていかなくちゃいけないんですから。
退屈な反復にあきあきしていたトレープレフにはそれがゆるせなかった。閉塞的な形式になんの活路も見いだそうとしないであいまいに現実を肯定しつづける精神なんてくそくらえ! おわらない日常を刷新したい。けど、トレープレフと現実のラブロマンスはあえなく失敗してしまいます。みんな疲れているのに、あるいはそのせいなのか、まともにとりあってくれないのです。
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蓋し『かもめ』という劇は、「かもめ」というイメージを介して対立する2つの形式をあわせることで、わたしたちの生(と死)を鮮明にうつしだすことに成功したのではないでしょうか? それも記号を生かすのではなくて生活を記号にする操作によって。たとえば『ハムレット』でも『リア王』でも、登場人物はまずもって日常から逸脱した舞台でなにかしら伝説的な気配をまとっています。形式的な作法で、登場人物同士の関係が記号の網目をなしているようです。シェイクスピアの妙技でそれらに息がふきこまれるわけです。対して『かもめ』ではそこいらにころがっているような風景をすくって劇に仕上げていく。でもドキュメンタリーではないから、想像力の扉をつかってシンボリックな世界にパッキングしてあげないといけないのです。「かもめ」という想像力の塊をめぐってみんな回転する。登場人物たちはあんなに重力をそなえているのにペラペラのシールみたいでもあって、してみるとチェーホフは方法論上の転回をつうじて、夢と現実が同居する新しいリアリズムをうちたてたのかもしれません。あらかじめ記号を地盤にしていればそれはどんどんリアルを追求する自然主義を志向していくのは是必定ですが、現実を出発点にすれば記号化をつうじてリアルを再構成する方法論へと発展していくでしょう。それはまさしく現代劇がすすんできた進路であって、『かもめ』はその潮流の始原にあたるというわけです。そしてわたしたちの生活そのものが、生の記号的側面を強調させる航路をたどってきた……あたかも『かもめ』のリアリズムが現実を牽引してきたかのように。チェーホフの魔法にわたしたちはまだまだ魅了されている。こんな記号的操作から現実を再構成していくやり方がどうやって思いつくのかというところですが、実のところなにか意識的にこねくりまわすことによってじゃないかもしれません。つまり形式を追求することによってではなくて、現実を生きる自分のやわらかい感性を素直に表出することによってなのです。
トレープレフ そう、つくづく思うんだが、問題は古いとか新しいとか形式にあるんじゃない。形式のことなど勘酌せずに書くこと、魂から奔放に流れ出てくるものを書くことが大切なんだ。
いやおうなしに時代はすすむ。とすれば、今を生きるわたしたち自身に正直な耳目こそ、リアルを純粋培養する増幅器なのでしょう。知性はその後の話なのです。第4幕、2年後のトレープレフはそこに気がついた。芸術家としてひとつ皮がむけました。
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わたしたちは自分たちが肉体であると同時にある種の記号であると、いやというほど知らされています。すれちがいつづけるコミュニケーションにもあきあきしているし、主人公の不在も知りつくしています。いくどとなくネオ『かもめ』を体験してきたわたしたちにとって『かもめ』のスタイルは熟れ過ぎてしまったのかもしれません。〇〇主義はおわったという決まり文句をたれながし、世界がこうあるべきとは口にしないでみんな個人的な体験にひきこもる。現実を乖離したアニメの氾濫だって、わたしたちの記号性を露骨に強調するムーブメントにみえる。多様なスポーツシーンは主人公の存在を隠蔽するか主人公を偏在させるかして、物語をたもとうとしている。
YouTubeやXやTikTokなどのプラットフォームでリアルはシンボルに侵食される……現実が熟れ過ぎてしまいました。たしかに主人公というアイコニックな躰は現代でも成立しうるでしょう。それもまたひとつの生の側面です。が、主人公たちに生活をおびやかす価値判断の発言権はゆるされていない。それはエンタメの内部でわたしたちを勇気づけてくれればいい。主人公は神と契約できないし、『かもめ』的側面を照応してしかあってはならない、なんて不問律があるみたいです。
だから『かもめ』はたしかにわたしたちの生のあるスタイルをうつしているしその意味で有効なんだけど、わたしたちはきっとまた別のスタイルでも生きていて、今わたしたちがもとめているのはその新しいスタイルでおりなされているリアルな気がしてならないのです。もうあきた。これまでのスタイルは地層のように集積してまた別のリアルをつくっている、現実のヴァージョンがちょっとずつ変成されていく――まさに今生きているわたしたちはまだきちんとわかっていないけれど、そのリアルを創造して形にしてひとつの存在として成立させるための方法論を、トレープレフは生き様ごとしめしてくれているのかもしれません。
さて、方法論的な奥義に気がついたトレープレフは芸術に新風をもたすことができたのでしょうか? 否、彼の器は現実を前に壊れてしまいました。個人的な絶望と疲れきった時代をうけとめられる魂ではなかったから、自分のめざしたスタイルを体現させるかのごとく旅だちました。銃で魂をうちぬいて、シンボルの世界へ、永遠に。
うすい・かい 地点インターン。京都大学大学院文学研究科哲学専修修士。
Photo: Takuya Matsumi