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かもめは飛んでいるか 少考4 薄井快
「読む『かもめ』」をテーマに、3月の『かもめ』公演をもりあげようと書かれているこの記事ですが、これまでの3本でだいたい『かもめ』の形式的な話ができたんじゃないかと思います。ここからはもうちょっと肩の力をぬいて、つまり責任をやや放棄する仕方で笑 ちいさなテーマについてお話しようかと思います。今までところどころにちりばめてきたテーマ、あるいはまだうもれているテーマ、またあるいは存在すらしていなかったテーマを、想像力と倫理観のおさめる限り自由に。
死に至る病
冷静に考えて、『かもめ』のセンセーショナルな出来事ときいてあがるのはトレープレフの自殺じゃないですか? 人が死ぬ以上のスペクタクルがあるかどうかはわかりません。けどやっぱりこの劇中で生命から物質に転化するのは「かもめ」と「トレープレフ」だけですから、重大事件にはちがいありません。
医者のドールンが最後、トリゴーリンにささやくんですよね、「アルカージナさんをここから連れ出してください。トレープレフ君が銃で自殺しました……」、そうしてわたしたちはトレープレフが死んだことを知るわけです。ならそれがまったくのびっくり箱だったかというとそんなこともなくてトレープレフは始終錯乱気味の文学青年で、劇中でも一度自殺未遂しています。売れっ子作家のトリゴーリンも愛人アルカージナの息子であるトレープレフにはうんざりしています。「息子があんな破廉恥をしでかしたんだ。ピストル自殺を図ったかと思えば、今度は私と決闘だと息巻いているらしい。いったいなんのためです? いつだってふくれっ面で不満たらたら、何かと言えば、やれ新しい形式だと講釈をたれる……」、まあとんだメンヘラボーイですよこれは。つまり予兆は十分すぎるほどあったわけです。
とはいえ最後にはきちんと自殺しちゃうんですから、ノリなのか本気なのかはさておいても理由ぐらいはあったと考えたいですよね。もちろん彼は無傷の青年ではあらず、自作の演劇は鳴かず飛ばずだわ、恋人を有名作家にうばわれるわ、作家になっても自分に納得できないわ、敵の手をはなれたかつての恋人ともけっきょくむすばれないわ、プライドはズタズタなのです。だけどこれらのせいかといえば、上で言ったように自殺未遂をしているあたりあやしい。
自殺の理由ってなんでしょう? 絶望――わかりやすいですよね。ではトレープレフは絶望していたのでしょうか? 19世紀デンマークの思想家で実存主義の祖とうたわれているセーレン・キルケゴールが著した『死に至る病』の力をかりましょう。ちょっと違った景色がみえてくるかもしれません。
キルケゴールによると、絶望とは世間一般に思われているような生ぬるいものじゃありません。
死が最大の危険であるとき、人は生きることを望む。けれども、もっとずっと恐ろしい危険を学び知るとき、人は死ぬことを望む。絶望とは、こうして死が希望となるほど危険が大きくなるときの、死ぬことすらできないという希望のなさなのである。
キルケゴールは絶望を「死に至る病」だといいます。が、そこでの「死」とは肉体的な死ではなく精神的な自己の死を意味しています。その「死」は自己が破壊されきって完全な過去へ流れさることではなくて、常に現在的に破壊されつづけることです。肉体は分解されてゼロになりますが精神はそうではなくて、さながら地獄で、いつまでも理想とちがう自己を責めつづけてぬかるみでもがきつづけるのです、曰く「絶望者は死ぬことができないのだ」(『死に至る病』p.35)。
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してみるとキルケゴールにしたがえば、自殺にふみきっている時点でトレープレフにはずいぶん余裕があったのかもしれません。いまの自己でないところへとジャンプできるだけ、思い切った精神の弾力があった。もしトレープレフが思慮深くほんとうに絶望していたんだとしたら、自殺を選べなかったかもしれない。自殺はかんたんに否定できやしませんし、するつもりもないですが、あくまで絶望との関係でみて、自殺は絶望の結末ではないでしょう。なるほど彼は意識的には絶望していた。正確には絶望しているフリをしていた。もしかしたらほんとうに絶望していた……自殺を決めたときまで、あるいは自殺するときまでは。わたしはトレープレフのジャンプを見逃したくありません。この生でないところに救いがあってそこにジャンプしようとする、ある意味で強靭な脚力が自殺を可能にした。つまり、自殺を決めたときからトレープレフの胸には希望が光っていたのではないか。
キルケゴールはまたキリスト教者の立場からこう言います。
信じる者は、可能性という、絶望に対する永遠に確かな解毒剤を手にしている
「可能性」は神の言い換えで、信じる者とは神を信じる者なわけですが、絶望している自己を可能性へ投げだす力こそ絶望を克服するというわけです。キルケゴールによるとその可能性が唯一神ですが、トレープレフの場合は無、ゼロのどこかだった。トレープレフは自殺して絶望を克服する、あるいははじめから絶望なんてなかったかもしれませんが、すくなくともキリスト教的救済に身投げしていたわけじゃなかったでしょう。彼は神に祈ることも
なく、粛々と現実の荒野で可能性へ身投げしたのです。
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わたしには、トレープレフは勝利者に見えます。絶望に対する勝利者に見えてしかたがない。身軽な青さが、絶望の淵でつかれている他のみんなを横目にどこでもないところへジャンプしていった。みんなが救われる日は永遠にこないでしょう。みんなつかれていて、もうどこにもいけないことがわかっているから。もしあるとしたらみんな自己をなくして亡者になったとき、絶望も希望もないしずかな世界がやってくるだろうけど、そんな日は人が人であるあいだはやってこない。だけどトレープレフだけは早抜けして、どんなにぼやけていても希望の姿勢をとることができた。自殺がいいとは言えない。でもアクロバティックなジャンプをながめるわたしたちは、たしかにトレープレフに置き去りにされてしまった。彼だけじゃない、すべての自殺者に置き去りにされてしまった。彼らはみんなひょっとしたら、わたしたちをどこまでもはこびさるあの、津波のような、はてしなくつかれた時間に対する勇気あるレジスタンスなのかもしれない。さしあたってわたしは、神の存在しない世界で救済は可能なのか、躰をはって実験した大馬鹿者としてトレープレフをみなしたいと思います。
成功したか聞くことはもはやできないけれども。
うすい・かい 地点インターン。京都大学大学院文学研究科哲学専修修士。
Photo: Kyo Kim