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「間(あいだ)」を踊りと呼べるまで ~それを踊りと呼べるまで⑪~

「お父さんは、何の仕事をしてるの?」

いつか娘にこう問われる日が来るのを、私は今から覚悟しなければならないと思っている。

と言うのも、コンテンポラリーダンスと呼ばれるものを20年近くやって来た私自身、自分が何をやっているのか、分からなくなることがよくあるからだ。

「そもそもコンテンポラリーダンスって何?」という方は、私の過去記事にこんなものがあるので、是非立ち寄ってみて欲しい。
~コンテンポラリーダンサーが考える、コンテンポラリーダンス“再”入門~

私のやっていることの多くは、どれも一言では説明できない。
家に居たりいなかったり、不定期で、複雑で、多岐にわたる私の仕事を、娘にどう説明すれば、理解してもらえるだろうか?

そう考えた時に思い浮かんだのは、「間」という言葉だった。

演劇とダンスの間。
家の庭と劇場の間。
教師と生徒の間。
障がい者と福祉職員の間。
伝統と現代の間。
そして、親と子の間。

もし私の連載記事を全て読んでくれている、稀有な読者がいるのなら、お分かりいただけるかと思うが、こうして今までの連載を振り返ってみると、様々なモノ・ヒト・コトの間に、私の仕事が存在しているという事がよく分かる。
そして、自分の踊りに関しても、

踊りと観客の間。
テクニックと表現の間。
身体と精神の間。

いつも「間」について踊って来た。

それは「どっちつかず」、「中途半端」、「根無し草」と言われかねない、ギリギリのラインで踊られる「間」の踊りであり、そこにピンポイントで賭けて来たのが、私の20年だったのではないかと思う。
お陰で全く儲からないという話は、またどこかで書こうと思う…。

何かに属したり、白黒ハッキリさせてしまえば楽なこともある。
自分で言うのもなんだが、20年もの間、「間」であり続けることは、結構、大変な事だ。

それでも、なぜ私が「間」にこだわり続けて来たのか。
その理由は、「間」にはモノ・ヒト・コトを繋ぐ力があると、信じているからだ。

「間」には、「間」であるからこそ機能する役割がある。
そしてそこに、私の「戦場」があると思っている。

戦場という言葉は、決して大げさではない。
なぜなら、そんな戦場に、つい最近も出くわしたからだ。
それは今年度、授業を担当した高校での出来事であった。

<授業という戦場>

私は東京から兵庫県の田舎に移住してから今までに、県内4つの高校で通年授業を担当してきた。
県立校や私立校、それぞれ抱えている問題を解決すべく、様々な形態、様々なテーマで授業を行ってきたが、先日、その中の一つの高校での、最終授業があった。

この学校で私が担当しているのは高校二年生。
三年生になって忙しくなる前の、そして社会に出る前の最後の砦として、コミュニケーションをメインに一昨年、去年と教えてきた。

もちろんこの授業は、私だけで行っている授業ではない。
学校とアーティストである私との間に、コーディネーターが入り、更に授業にはアシスタントにも入ってもらい、学校の先生方と共に、多角的に進めている授業だ。

端的に今年の授業を振り返ると、一昨年より授業数も生徒数も少なかったが、それぞれの伸び率が高かった。
人前で声を発せなかった生徒が、最終授業で一言挨拶できたこと。
人間関係のトラブルを乗り越えて、笑顔を取り戻した女子。
謹慎明けに急激に視野が広がり、リーダーシップを発揮し始めた男子。

数え上げれば、きりがない。
彼ら彼女らの成長は何も、この授業だけに起因するものではないが、もしこの授業が僅かでもその成長に貢献できていたのなら嬉しい。

たとえ世間一般的に見たら小さな一歩でも、彼ら彼女らにしてみれば、大きな一歩。
その一歩の大きさを測るのではなく、その挑戦を見届けるのが、この学校の授業での、私の役割だと思っている。

とはいえ授業は毎回、真剣勝負。
毎回計画を立て、授業後は先生を含めて振り返りをし、次回への作戦をチームで共有しながら、試行錯誤を繰り返して行ってきた。
それはそれで、戦場と呼ぶにふさわしい現場だったが、それとは別に更にその先に、もう一つ違う次元での戦場があった。

<「間」での戦い>

その日の最終授業では、それまで私の授業に参加していなかった他の先生方に来ていただき、最後の総まとめとなるワークを行う生徒たちの様子を見てもらうことにした。

手前味噌だが、最後のワークは第一回目の授業とは比べ物にならない程、豊かで、生徒たち自身も、授業後の振り返りノートに「自分たちの成長を感じた」という感想を書いてくれた子が多かった。

しかしその授業後に、戦場は現れた。
見てくれていた先生の一人からこう言われたのである。

「もっと踊って欲しい。」

これを聞いた時、私は思わず「は?」と言いそうになった。
この先生は、今までの経緯を全く知らないから仕方ないとはいえ、驚いたのは、その先生も普段、生徒たちを教え、触れ合っているはずなのに、彼ら、彼女らの成長が見えていなかったことだった。

逆に言えば、私は普段の教室での生徒たちを知らない。
だからこそ、その成長が見えたのかもかもしれない。
もしかしたら、教室での生徒たちの姿は、私が体育館で見て来た生徒たちとは、ずいぶん違うのかもしれない。

それでも。それでもだ。
毎日生徒の傍にいて、生活を共にしている先生が、彼ら彼女らの成長を一番に感じ取れないのは、悲しすぎる。

「ここも戦場だな」

直感的にそう思った私は、この先生を前に、事細かに「この一年で私達が何を目指し、どんな問題を抱え、最終授業で何が起こったか」を、戦いを挑む覚悟で説明した。そして、彼ら彼女らの心がどれだけ「踊っていた」のかを必死で伝えた。

今思えば、本職の先生を前に、教えを説くなど、失礼極まりない事だったかとも思うが、その時の私は、そんなことは一切気にせず、体裁構わず、ただ生徒たちのために言葉に魂を込めた。

この先生を責めるわけでは無い。
ここでヘラヘラして戦わなければ、自分達のやってきた事を、自分で貶めることになる。
いい授業をすること、いい成果を上げる事の先に、その価値を関係者以外に分かってもらうための戦場がある。
これはこの授業に関わった全ての人のための戦いでもあるのだ。

そして、そんな戦いを挑めたのは、信頼のおけるコーディネーターと、頼れるアシスタントが、後で必ずフォローしてくれると分っていたからだった。

正に「間」に入って私の仕事を全力でサポートしてくれている仲間のお陰で、言いたいことを言わせてもらえた結果、この先生にも話を理解してもらうことができ、私も先生の意見を尊重し、受け入れることが出来た。

それは、世の中的には、取るに足らない、些細な事かもしれない。
しかし、この戦いが決して「些細な事」なんかではないと知っている者として、私には戦う責任があった。
それが、地味ではあるが、私の人間としての仕事なのである。

<仕事・役割・人間としての仕事>

「間」という一つの漢字に、いくつもの読みと意味があるように、一人の人間にもいくつもの肩書と、仕事がある。

ダンサー、振付家、教育者、療育者、体操の先生など、肩書きとしての仕事は名刺に書ける。

しかしそれ以外の仕事については、中々一言では言い表せない。更にそこに「役割」を含めると、話はもっと複雑だ。

例えば夫、世帯主、父、弟など。
それらは仕事ではないが、その人を形成する大きな要素の一つだ。

そう考えると、あの日の最終授業の後、先生の発言に「は?」と思った私の心理と行動は、どこから発生したのだろうか?

ダンサーとして?教育者として?或いは子を持つ父として?

前章の終わりに「人間としての仕事」と書いた。
あの日の私の心理と行動は、「仕事」や「役割」から発生したものというよりは、私の人間としての「生き方」から、反射的に出たものだったのかもしれない。

私の仕事が一言で説明できないのは、この「生き方」が全ての仕事に、深く結び付き過ぎているからなのかもしれない。
だからややこしいのだ。

普通、仕事とプライベートは分かれている人の方が多いが、私の場合「生き方」がアーティストで、アーティストが仕事であり「生き方」でもある。

もう自分でも何を言っているのか分からない。
だから20年経った今でも、自分のやっていることが分からなくなるのだ。

しかし、自分が何を信じているのかは、自分でもハッキリと分かる。

だから私はいつまでも、「間」などと言っていられるのだろうとも思う。
普通、この歳まで「間」で居続けたら、頭がおかしくなるはずだ。
そこが平気でいられるというところが、私がアーティストでいられる要因なのだろう。そう考えるとこの仕事は、私には天職というか、性にあっていることは間違いない。

しかし冷静に考えて、果たしてそんな父を、娘は理解してくれるだろうか?
それは、またもう一つ違う次元の戦場である。

父対娘。更に妻。
「人間としての仕事」などと言っていられない現実が待ち構えているかもしれない。
そして私は、いつか娘に「は?」と言われる覚悟を、今からしておかなければならないと思っている。



京極朋彦の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/mf4d89e6e7111


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