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人生の始まり

こんばんは福原です。11月23日午前1時25分、洗濯機をぐるぐる回しながら自宅で書いています。今月は舞台の稽古も本番もない。そんな時こそゆっくりとした丁寧な生活を送りたいと思うのに、何故だか妙にバタバタしています。自分で自分にかけた呪いに気づき、それを解くためにまた別の呪いをかけるような、何もしていないのに心がヘトヘトになって1日を終える。そんな日々です。でも本当はバタバタしなくていいことにバタバタしていただけなのかもしれない。すべてのことは振り返るとなぜだかそう思えてしまう。今月だって何もないようで色々とあったのかもしれないし、本当は何もなかったのかもしれない。

数年前までそんな1日を送るのが怖かった。何も生み出せず、そのうえ何も得ることなく時間だけが流れていくような感覚は恐怖そのものだったし、それこそ本当に川の流れの様に人生があるのだとしたら、すぐにでも岸に上がりたかったし、岩や草にしがみついて離したくなかった。

今はどうかというと、全くの不安がないかと言ったら嘘だけど、つべこべ言わずにやるべきことをやろうという面持ちに変わった様な気がする。恐怖で震えていたって何もしないんじゃ何も変わらない。ならば具体的な何かに手をかけてみる。

某撮影。イケてる写真撮ってもらいました

やるべきこととは何か、それがわかった時にようやく人生が始まった気がした。初回の記事に書いたとおり、17歳の鎌倉芸術館の客席に座りながら長い眠りから覚めた様な気分になってようやく人生が始まったような気がしたけど、でも本当の始まりはそこにはなかった。走り出したつもりでいたけどゲートにも入っていなかったし、そもそも走り方すら分かっていなかったのだ。やるべきことをやるために、やるべきことを知る。つまり自分は何が好きで、何に興味があって何をしたいのか。それは同時に自分は何にピンとこなくて、何をやりたくないかを知ることでもある。自分はそれを知るのに何年もかかった。それを探しながら自分にとって心地よい環境を整備しながらじっくりとのめり込んでいく。そこには勝ちも負けもなく、あるのはシンプルに自分と向き合う時間だけだ。それはとにかく楽しいことだし、芸術や表現がある種の道であるならば、その道を粛々と自分なりの歩幅で歩くのみである。

いざ道を歩み始めてはたと気づくことがある。今までのやり方は間違っていたんじゃないか、今まで大事にしていたやり方なんて大したことなかったんじゃないか。あんなに直そうと思っていた自分の癖に気づいたらまた頼っているかもしれない。落ち込むことしきりだ。しかしその時こそが本当の始まりなのかもしれない、と最近は思っています。

やるべきことを始めただけではまだ始まりじゃない。「質」をあげようとし始めた時が始まりの始まり、本当の始まりなのかもしれない。芸能の世界は晴れたり降ったりの繰り返し、されど芸の道は人生より長く伸びている。



福原冠の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/me96780b246d6


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