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それを踊りと呼べるまで⑨ 「なんでもないこと」を踊りと呼べるまで

先月で、東京から兵庫に移住して6年目になる。
今回でこの連載は9回目を迎えた。
気付けば私の人生は38年目に突入し、6回目の結婚記念日を迎えた今月、娘の歯は、やっと8本目が生え揃った。

何年、何回、何本と。
人は数を数えたがる。
「どうにかして自分が生きた痕跡を残したい。」
そんな、人の性が、人に数を数えさせるのかもしれない。

ただ最近、私は以前に比べて数えなくなってきたように思う。
娘とお風呂で10まで数えることはあっても、自分のことを数える暇が、正直なところ無い。
或いはただ、数えるのが面倒になってきたのかもしれない。
自分が今年何歳かさえ、たまに忘れることもある。

そもそも、私の生活を見回せば、数えるほど多くを持っているわけではないし、大切なものは、片手で数えられるほどでいいと思える歳になった。

今は指折り数えることよりも、一本ずつ指を開き、如何に手放せるかを考えることの方が多くなった。
とは言え、その実践はまだまだ難しい。

例えばこの連載も過去の8回、「意義あること」を書こうと気合を入れすぎて来たかもしれない。
「何を踊りと呼べるだろうか?」その問い自体は悪くはないが、もう少し手綱を緩めてみたら、残り3回の記事の軌道も、少し変わって来るかもしれない。

そんなことを思いながら、今回は特に「なんでもないこと」から書き始めてみようと思う。
着地点を決めず書き始めたその先に、新たな発見があるかもしれない。

<ある冬の日のタイムテーブル>

朝6時半に娘が顔に覆いかぶさって来て、起こされる

娘に水を飲ませ、自分も水を飲む

娘のおしめを替えて自分もトイレを済ます、そのわずかな間に娘は部屋に置いて行かれたと思ってギャン泣き

ついでに猫も起きて来て、しばし娘と猫のじゃれ合いを眺めながらボーっとする

娘を抱きかかえて寝室からキッチンへ

猫もエサを求めてついてくる

灯油ストーブを付け、ヤカンでお湯を沸かす

娘が一人で遊ぶわずかな隙に歯を磨き、顔を洗い、コンタクトを入れて朝食の準備

エサを食べ終えた猫が、外に出せとせがむので庭に放つ

猫のビヤ♂

娘に朝食を与えつつ、自分も食べる頃に妻が起きて来る

妻が娘に授乳する間に、妻の朝食を用意し、食べ終えたら片付ける

妻が仕事に出かける

洗濯、掃除後、娘と本を読んだり、庭を散歩したりして遊ぶ

9時半から10時頃、娘を車に乗せてドライブ
走り始めて3分ぐらいでいつも眠るので、そのわずかな時間、Wi-Fiの入る駐車場でメールチェックやデスクワークを済ませる

娘が眠る30分で仕事が片付かないので、午前のおやつで機嫌を取りながら作業続行後、帰宅

娘と体を動かして遊びがてら筋トレ、有酸素運動、インスタの1日30秒ダンス動画を撮影(勿論できない日も多々ある)

https://www.instagram.com/tomohiko_kyogoku/ より

11時半ごろから昼食準備、おなかをすかせた猫が家に帰ってくる

12時ごろ、妻が仕事から帰ってきて昼食

妻が娘に授乳中、昼食の片付け

妻が娘を寝かしつけ、昼寝

私が仕事に向かう

夕方、私が仕事から帰り、妻と娘と夕方の散歩

6時頃、夕食の準備、夕食

7時頃、妻が娘を風呂に入れる間、夕食の片づけと、娘の入眠準備

風呂上がりの娘を着替えさせ、妻と娘の髪を乾かす

8時から9時の間に妻が娘を寝かしつけ、私は部屋を片づけ、翌日のご飯の仕込み

10時から11時頃、夫婦各々の時間(これがとれる日の方が珍しい)

11時頃、妻は眠り、私は娘と一緒に別の部屋で眠る

夜中の0時、夜泣きする娘を抱っこして、夢の国に送り返す

何時か定かでない、まだ暗い時間、娘が夢の国からギャン泣きで帰ってくるので、再び送り返す

朝方、夢の国から帰って来た娘は、昨日と同じく父の顔面をよじ登る

<時間が溶けていく>

今、私達夫婦のタイムテーブルは娘を中心に回っている。
「自分の時間」などほぼない。

だが、ふと思う。
「自分の時間」とはなんだろう?と。

先日の 京都嵐山芸術祭 出演の際に訪れた、老舗カフェ「廣瀬珈琲店」での久々のカフェタイム

カフェでぼーっとする時間。
トレーニングに明け暮れる時間。
友人と遊ぶ時間。
一人で旅する時間。

嘗てあったその時間が、今は殆ど無いし、恋しい。
だが、家族が出来た以上、「自分の時間」を再定義しなければ、いつまでも前に進めないのも事実だ。

そのためには自分を犠牲にするとか、キャリアをふいにするとかいう考え方ではなく、もっと大きな枠で「自分の時間」というものをとらえる必要が出てくる。

今ここに書き出した、娘中心の時間割は常に変動するし、役割も授乳以外は夫婦でスイッチする日もあるし、全てが上手く行かずに破綻する日もある。

家族、群れ、集合体。或いは状態、生体、エネルギー。
そういったレベルに、自分を溶け込ませて考えた時、もはや妻も娘も、成功も失敗もなくなって、一度きりの時間の中に、全てが溶けていく感覚がある。

人はそれを「日常に忙殺される」とか「非生産的」とか呼ぶかもしれない。

ただ、私はこの慌ただしい日々と、家族と時間が溶けていく感覚を、一つの“踊り”と呼んでもいいのではないだろうか?と思っている。

そして私はいつか、「子供がいる」という事がアーティストのキャリアにとって、その人の人生にとって、マイナスではないと言い切れるような作品を作りたいと思うようになった。

もちろん「子供がいる」ことだけが幸せの定義ではないが、「子供がいる」ことによって、新たな文脈で踊りが進化していくこともあるという事を、言い訳でも、負け惜しみでもなく証明したい。

<終わりに>

今、私は家族全員(猫含む)が眠りについたリビングでこの文章を書いている。
ここまで書いてみて、数えず、掴まず、手放すつもりが、結局ついつい、書く手に力が入り始めてしまった。
やはり「なんでもないこと」を「なんでもなく」書くのは中々難しいようだ。
まだまだ私は色々なことを手放し切れていないのだと思う。

「なんでもないこと」を「なんでもなく」

そんな踊りを踊ってみたい。
今はきっと、そんな踊りのための、長い稽古期間なのかもしれない。



京極朋彦の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/mf4d89e6e7111


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note「わたしと演劇とその周辺」
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