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居ること、属することと、流れること

高校のころに友人が、クラスのグループ分けを紙に書いていた。誰と誰がよく一緒にいて、誰とはあまり仲が良くないとか、そんなふうなことだ。文化祭かスポーツ大会か、何かしらクラス内でグループに分かれて行うイベントの前だったと思う。事前にクラスのグループを把握しておくことで、ホームルームをスムーズに進めるためだったのだろうか。

どんな理由でそんなことをしていたのかは覚えていないが、書き終えた友人が、「かんちゃんはどこにも属してないね」と言ったのを覚えている。
またあるとき、別の友人に、「干城くんは敵を作ったほうが良いよ」と言われたことがあった。これはもう状況も文脈もまるっきり覚えていない。

「薬になれなきゃ毒になれ、でなきゃあんたはただの水だ」という言葉が頭に浮かぶ。これは『花物語』に出てくる言葉で、僕は西尾維新さんの原作小説を読んではいないが、アニメで見ていた。〈物語〉シリーズには、あるときあるとき、ふと蘇ってくるような言葉が多い。

ある言葉が、そのときの状況や文脈や感情をひっくるめてもってくることもあるけれど、ただ何となく言葉だけが印象に残っていることもよくある。
コミュニティってもののことを考えていたときに思い出したのが、その高校生のころの言葉だった。

僕は割合、誰とでもそれなりにやれる。実際どうだかわからないが、自分ではそんな具合いに思っている。そんな感じだからか、あまり1つのコミュニティに執着がない。執着がないというか、もう少し正確に言えば、僕はコミュニティに属するのがあまり得意ではない。根無し草のように、ふらふら、ふわふわしているようなのが好みなのだ。

ただ、そんな好みなのだが、衣食住のなかでは住に一番重きがあって、そのことはなんとなく自分では不思議なことのように思っている。家が自分にとって心地よいことがとても重要で、それ以上に、ただ単に家ってことだけじゃない、ホームっていうようなものを望んでいるようにも思う。ホーム、あるいは拠点。

僕は近頃自分に、コミュニティが必要なように感じている。中年に差し掛かって、家庭をもっていないからなのかもしれないし、劇団や会社等にも所属していないからなのかもしれない。だからこれは個人的な、私的な要請からくるもののようにも思っているが、どうだろう? みんなは当然のように一人ではないのだろうか。

水のようにただ流れていってしまう自分に、茫漠とした頼りなさを、空虚を感じる。しかしそんなふうに感じながら、やはりどうも僕は、水であることを指向しているように思う。そうしたいと思っているように思う。水であること、あるいは中間であること。そんなふうに居ながら、コミュニティにいることは可能なんだろうか?



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note「わたしと演劇とその周辺」
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