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繰り返される時間の中にたたずんで
仙台の真田鰯です。ついに12本目です。1年間お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。
私が演劇へ向かう動機となっている人の紹介ということで、今回は私の娘の話です。現在6歳です。この春、小学生です。ここではMとします。これまでで出会った誰よりも強烈な女の子ですので、私の人生も強烈に影響を受けています。
Mと初めて会ったのは、嫁の股から出てきたときだ。
深夜だった。もじゃっとしたものが股からでてきた。ギョッとした。もじゃっとしたものは髪の毛だった。ふさふさした髪の毛だけ股からもじゃっと出てきて、しばらくそのまま留まっていた。当時4歳の息子も起きだしてきて、赤地に白抜きで「御安産」と書かれた紅白のうちわで嫁を扇ぎ、「ごあんざん!ごあんざん!」と応援した。
破水してからは時間がかかったものの、陣痛がはじまってからはあっという間だった。
げっそりしていた嫁とは対照的に、Mはうまれた瞬間からぷっくりしたほっぺを持って出てきた。
興奮した息子は、真夜中に、紅白のうちわを抱えて、いつまでも歌ったり踊ったりしていた。
たくさん笑いながら生きていってほしいと思っていたが、たくさん笑わせる女の子に育っていった。笑いをとって他人を楽しませることで、自分も楽しくなる、というのを幼いころからずっとやっていた。誰かを笑わせているか自分が笑っているか、だいたいどちらかだ。
「楽しい」以外の感情も激しい。かなり激しい。
長年俳優をやってきたが、「絶望する」という感情が「斜め後ろに跳躍しながら倒れる」という動きで表現されるのは初めてみた。ちなみにこのときの絶望は「さっき車でおやつ食べたから、今日のおやつはもう終わりよ」と言われたときの絶望だ。「今日のおやつはもう終わり」は、世界の終わりと同レベルだった。
笑いをとる際の、呼吸と間合いがすごい。笑いをとるべきポイントの直前で、絶妙に息をとめ、見ている者の呼吸をコントロールしてくる。
みんながみて、笑ってくれるのが楽しいらしく、彼女の技術はどんどん上達する。本当にずーーーっと、長い期間をかけて笑いの技術を習得している。そして、他人を笑わせるのが好きな者は、笑うのも好きだ。
また、視線を集めるのが上手い。みんなが見るまで待つ。変な顔で。あるいは変な動きで。そして笑うまで待つ。変な顔で。あるいは変な動きで。正直くどい。小さい生き物がくどくど笑いをとりにくる。笑わずにいられない。
視線を集めるのが上手いと言ったが、上手いというか手段をとわない。
「パパ見て」「パパ、パパ、見て」「ねぇえー、パパ、パパ、パパ、パパ、パパ、見てぇー!」
くどい。見るまでとまらない。仕方ないから見ると、笑える。
もはや承認欲求の虜であるように見える。見てほしいし笑ってほしいし、自分を見て笑ってもらえるのが快感であるに違いない。全体いつもオーラがキラキラしている。もしくはギラギラしている。
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いつも歌ったり踊ったりしている。CDのアルバム1枚分踊ったりしている。これも大抵キラキラしている。
なんだか自宅で暴れている姿ばかりを思い浮かべてしまうのだが、よく考えたら彼女が生まれてから半分以上の時間が「コロナ禍」である。彼女がいなければ、コロナ禍の我が家は退屈だったろう。
彼女をみているかぎり、生きることは、大局的にみて、とても愉快で楽しいものであるようだ。
コロナ禍になってから、あわせて2回、合計約1か月間にわたり自宅に引きこもることになったわけだが、それを経て発見したことは、「自宅に引きこもるのって、まあまあ楽しい」ってことだ。社会復帰しなければいけないことありきの休暇だからかもしれないが、自宅から出ずに過ごしていても、まあまあ満たされていて楽しい。楽しい理由は楽しい人がいたからだろうということもあるが、それでも楽しい。
美味しいものを作って食べ、ほどよく運動をし、ひなたぼっこをして、本を読んで、勉強をして、おしゃべりをして、眠る。具合が悪くなければ、決して悪くない。働かなくてもお金が振り込まれるとか楽園ではないか。
この「閉塞的な環境でも、楽しかった」という経験は、驚きであって「じゃあ逆に言うと人間にとって必要なことって何?」って疑問が沸いてきた。エデンのように、食べ物を得るために労働をする必要がなくて、死ぬこともない(かもしれない)ってなったときに、それでもなお人間がやらずにはいられないことって何なのか?演劇を1本つくりながら考えようと思う。
成長しなければいけないという強迫観念。
中学、高校の頃は「今、努力をして一生懸命勉強しておくと、いい大学に入ったり、いい職場に勤めたりして幸福になれる」って価値観があって(ホントに昭和だ)、そういう価値観に頭を押さえつけられながら、どこかで間違っているとも思い続けていた。今、この時間を、遠い未来の幸福のために「我慢する」っておかしくない?大人になってから思うのは「勉強は楽しいので、全然、我慢ではない」ってことと、「未来の幸福のために」って考え方は現在時に対する注意力を散漫にするってことだ。俳優をやっていて心地よいのは「現在時だけで生きられる」ことだ。今だけを生きていられるのって、現代社会を生きる我々には貴重だ。今、この時間だけを生きるという、ただそれだけの幸せがつかめない。
劇団の方針も「成長・発展」とか「拡大再生産」とか目指さないように注意している。いつか東京ドームでコンサートをするとかも考えていない。なぜかわからないけど、演劇やろうぜって集まった人たちが、今この瞬間、一緒にいる間だけでも、幸せを感じられることを目的としたい。どうせいつか死ぬのに、限られた生きている時間で「演劇やろうぜ」って人が集まるなんて、とても奇跡だと思う。
将来に対する目標がない、未来時制がない集団ってやりがいをもってやれるものだろうか?よくわからない。私以外の劇団員たちは、もはや成長神話なんて信じていない若い世代とはいえ、人間て未来への展望がなくても一緒にいられるものだろうか?
未来への展望。
我々はすでに物質的な豊かさを登りつめていて、高台の上にいる。我々の道行きには、どこまでもどこまでも花が咲き誇っていて、その中を歩んでいく。そんな展望しかない。
子どもが生まれて感じたことは「公園の丘の上で、日差しがあたたかくて、風がそよと吹いて、子どもたちが笑っていると、永久にこの時間が繰り返されてもいい」って思えることだ。魔法のような時間だ。もちろん、幼い子どもには、未来がいつも内包されていて、いつかこの魔法の丘から去っていく。
そして、どこにも行けない頭のわるいクマのような父親は、魔法の丘の上で、繰り返される時間の中にたたずんで、ずっとこの丘の上で、花々にかこまれて待っている。
真田鰯の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/me0d65267d180
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![note「わたしと演劇とその周辺」](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48870185/profile_2f0220ffdcb850c3150ebc54237a20fa.png?width=600&crop=1:1,smart)