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ながいながい春休みに
分かりやすさ、というものから遠いところにあるという感覚がある。
僕は僕自身、どうにもわかりにくい。それほど複雑だとは思わないけれど、だから、単純だけど分かりにくいっていう、それはつまり、ぼやけているだけなのかなと、書きながら思ったりした。
わからない、に取り組んだのは、大学に入ってからな気がする。日常や常識みたいなものと自分とのギャップは、幼少から10代にかけてそれなりにあったと思うが、僕はほとんど高校を卒業するまで、考えるってことをしてこなかったんじゃないかなんて思う。本や映画や演劇や、わからないものをガシガシとあたっていったのは大学生になってからだ。文学部を選んだからだろうか、金融や経済や、または法から学ぼうとする気配が僕にはなかった。
大学の、あの訳の分からない長い春休みに、僕は呆然としていたような気がする。それまで見ていなかったものたち、見えてさえいなかったものたち、分かったことにしてきたものたち、そうやって逃れ続けてきたものたちのツケを、今でも払い続けているような気がしている。
なんかよくわからない、が楽しめるようになったのは、それはそれで面白さの種類が増えたということで、僕の、大袈裟に言えば人生を、豊かにしたのかもしれないが、それなりに真っすぐ進んできた僕の、控えめに言っても人生を、うろうろとするようなものに変えたように思う。
もちろんはっきりと区切れるようなものでもないのだけれど、分かりにくさにケリをつけて戦っている友だちの姿は、なんだか懐かしく、とても頼もしいように映る。つまり、大人というものを感じる。あるいは父や母を。きちんとステップを踏むことができるというのはやはりすごいと、中年を迎えて強かに思い知らされている。
自分自身への徳政令カードは、実は簡単に出せる。OKもうこのへんでこれは終わりにしようと言えば、だいたいそれは終わりにできる。いや、終わらないんだけど、また考えちゃうんだけど、でも出せることは出せる。決めること、選ぶこと、あるいは何かを諦めること。言葉にすることも、きっとそれに近くて、そうすることで、価値を新たにしたり再設定したりしている。意識的にも無意識的にも、行動で、言葉で、価値を設計し、自身の生涯を建設している。
生きることの意味や理由があまりにもなくて、だから誰かの人生に触れたくなったりする。誰かの/誰かにとっての価値を知ることで、なぜだか自身が肯定されるというようなことが、確かにある。
なんとなく、僕が演劇に拘っていることの根っこは、このあたりにあるような気がしている。こういう、ぐだぐだな、どうしようもできなさの狭間にあって、それに付き合って、うんうん唸って、さて、どうしようか、っていうような。
とても建設的とは言えないが、でも解体することにも価値はあるんじゃないだろうか。マイナスだかプラスだか分からない、とにかく積み上がったものたちを、ゼロにするんじゃなくて、バラバラにして眺めてみる。みたいな。そういうあり方をなんだかんだずっと模索しているような気がする。
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