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デデデデ考察-猫の金玉は冷笑か

以下、デッドデッドデーモンズデデデデデストラクションの映画前章・後章と原作を読んでの感想でネタバレ全開です。ご注意ください。

賛否両論のデデデデ

デデデデで、世界の分断について、小比類巻とおんたんの兄ヒロシは作中で似たようなことを言っている

小比類巻「俺とお前は立場にかかわらず同類」
中川ヒロシ「右も左も関係ない。社会とは二つで一つの金玉なんだよ」

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション

私は作者の考え方を最も投影されたのが、小比類巻とヒロシだと思ってて、直接的に行動したのが小比類巻、行動しなかったのがヒロシ

デデデデは賛否両論の作品のようで、特にリベラル・社会運動系の人からは評判がよろしくない。曰く「作者の冷笑的態度と相容れない」と。この作品のメッセージを「世界は変えられない。凡人は手の届く範囲の関係性だけで満足してろよ」と捉えると、なるほど冷笑的にも見える。
それ以外にも、社会運動が戯画化して描かれているのぎマイナスポイントだろう。門出の母は社会運動に関わって家族を蔑ろにした人物だし、作中通して描かれる社会運動のメンバーは人の話を聞かない自己中のアホくらいに書かれている(ように見える)ので、作者から「社会を変えようと熱くなってるやつはアホ」と言われているような気がして、反発心を持つのもむべなるかなと思う。
だが、私はこの作品を冷笑的と切って捨てるにはあまりにもったいないと思う。あえて言えば、この作品が冷笑的と切って捨てられること自体が、この作品の範疇であり、また限界でもあるとも思う。これが、この作品の業でもあり、存在意義でもあると思う。

Cynical theory

「冷笑主義」というのは一般に「何かを真剣に取り組む人、理念を持つ人を馬鹿にする態度」を指すが、実際のところ、この言葉は相対的、立場的なもので「自分の意見をあざ笑う人々」へのラベリング程度の意味しか持たないことも多い。少なくとも自分をあざ笑った誰かに「あいつ嫌な奴」と言うのは、どこかの誰かの専売特許ではない。

『「社会正義」はいつも正しい』という本があって、これは昨今のリベラル的言説をやり玉にあげてることもあって、リベラル方面からはつとに評判の悪い本だ。

この本への賛否はさておき、この本の原著のタイトルは「Cynical theory」という。日本語にすれば「冷笑理論」となる。この本の冒頭でいわゆる社会運動に熱心な人々、Wokeな人々を指して、以下のように説明する。

部外者にとってこのような文化はまるで別の星から来たように見える。その星の人々は、性的な繁殖について知識を持たない人々で人間のあらゆる社会的相互作用を思いきり冷笑的に解釈するらしいのだ。

「社会正義」はいつも正しい
 ヘレン プラックローズ (著), ジェームズ リンゼイ (著)

この著者らは一部からは極右呼ばわりをされるような人たちだが、その人たちがWokeを冷笑的というのはちょっと面白い。(正確にいうと、この本はリベラリズムの立場から応用ポストモダニズムを批判した本であり、ポストモダニズムの立場を冷笑的と評していることが多い)
言ってみれば、人が、誰かが大事にしている何かを軽視し、あざ笑ったとき、笑われた人は誰であれ、相手に「冷笑主義」とレッテルを張ることができる。普段、冷笑主義という言葉を使っている人は嫌がるだろうが、実際にはできるし、正当性がある。お互いにお互いを「あいつ嫌な奴」=「自分の価値観に冷笑的なやつ」と罵り合う。
悲しいかな、これが断絶というものである。かくして猫の金玉は左右に引き裂かれ、世界は崩壊に至る。

デデデデの物語とは何であって、何でないか

デデデデは表現が、テーマが、視点が多層的であるし、因果関係が複雑になっているので見えにくいが、枝葉を落として言えば、要は「内気だった子供が勇気を出して、友達を救う」話だ。もう少し付け加えるなら「友達を救った結果、なぜか世界が滅んでしまう」話でもある。
決して「世界を滅ぼしてでも友達を救う話」ではないのである。これは因果が逆だ。おんたんがシフトした時、別に世界が崩壊するとわかっていたわけではない(示唆はされてる)
この物語のハイライトは、凰蘭が「はにゃにゃフワーッ!!」と奇声を発して追い詰められた門出を救うシーンだ。おそらくは凰蘭と門出はかなり異なるところの多い人間で、きっと本質的には思想や性格が離れたタイプだと思う。だが、そんなことは関係なく、決死の思いで、自分を変えて運命に介入したのだ。その結果として世界がヤバくなってしまうのだが、それは物語の結果だ。
大事なのは、立場や思想や信条と関係なく、手を差し伸べて救おうとしたことだ。このシーンは冷笑的とは真逆だ。むしろ「冷笑」の言葉で断絶してしまう壁をぶち破る行為で、最高にエモーショナルだ。「冷笑的」という言葉は分断を促進するのでよくないとは思うが、このシーンを「冷笑的」という人がいたら、それは、まぁ、かなり冷笑的な人かもしれない。

行動で世界は変わるが滅びない

この作品は表現力があまりにすごくて、多くの人が誤解してしまっているのだが、実は友達に声をかけてもかけなくても、世界は終わらないのである。
作中では、凰蘭が門出に声をかけたことによって、侵略者を招き、世界がヤバくなってしまったのだが、実際にはそんなことは起こりえないのである。それが現実である。
原作では最後に、門出の父のたった一言の助言「中川さんと友達になるように話かけてあげて」で世界はかわりマジで平和になってしまうのだが、本来そっちの方が普通なのである。
それがあたかも、声かけたことで世界が守られる展開がご都合主義だと感じさせられてしまうのだが、それは作品の説得力がありすぎるだけで、世界がヤバくなった方がありえないご都合主義なのである。
だから「絶対の関係のために世界がどうなってもいいというのは冷笑主義だ」というのは作品の凄さに気おされた感想であって、「世界がどうにかなるようなことはないんだから、ミニマルな関係を見つめなおすと世の中ちょっと良くなるかもね」とメッセージを受け取るのが素直な見方なのではないか…と思う。

右も左も関係ない。社会とは二つで一つの金玉なんだよ

というわけで、私はこのデデデデという物語が冷笑的だとは思わないし、むしろ希望を描いた作品だと思っている。立場主義ではない関係性というのはとても大事だと思う。ヒロシが言うように「右も左も関係ない。社会とは二つで一つの金玉なんだよ」なのだ。私もこの金言を胸に生きていきたい。
しかし、物語も表現もあまりにも強烈で戯画的でもあるし、露悪的なところもあるので、反感を持つ人がいるのもよくわかる。そこの分断を乗り越えるのは、また別の作家の、別の作品の役目だと思う。

最後に言い訳しておくと、上記の感想は、デデデデという作品をごく最近、映画で見て、原作を読んだ私自身の感想であって、作者である浅野いにお氏が冷笑的であるかどうかについては全く関知しない。氏の他の作品を読んだことはないし、氏の言動を読み聞きしたことはないので。

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