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コミュニケーションをとるために必要なことが出来てなかったんだよねって話。

ICUで働いていたとき、身も心も疲弊していた私は周りとのコミュニケーションを必要最低限にしていた。

「いっちゃん、今度飲みに行こう!」
「こんなときは、こうしたらいいんだよ」
「ほんと、冷めてるな〜。でもそこが、いっちゃんらしくていいよね」

なーんて、新卒のときから気にかけてくれた同期のみんな、先輩たち。
いっちゃんというあだ名も付けてくれてたの、今思い出した。

同期といっても、まったく現場を知らない新卒の新人は私だけで、他の3人は中途採用の先輩たち。
医療用語も知らない、針も刺したことがない、そんな私がICU。

すわんがんつかてーてる?

ばるぱん??

なにそれ…

わからないわからないわからない。

同期のみんなのもっと知りたいという気持ち。
学ぶためにここに来ました!という熱量。

「ついて行けない…」


私は勝手にそれに傷ついた。
留置針さえうまく入れられないとき。
救急搬入されてきた人の状態に圧倒されているとき。

みんなはできるのに、私はできない。



このときは自分と相手の間に壁を作って、私の心を守ることが最重要課題だった。
スタッフが少ない中で夜勤ばかりの月もあり激務だったり、追いつかない知識を絞り出してもドクターからは怒鳴られるし、さらには人格否定のようなことまで言われる。
頑張っても頑張っても亡くなる人たち。
人間はこんな姿になってしまうのか。
体内から排出されるのは、海の底から流れ出てきたような見たこともないもの。

私はなんのために死にそうな人たちを看てるのか。

死にそう、というか死にたいのは私だ。

病院爆発しろ。
車の運転ミスで私に激突してほしい。
地球に隕石追突してくれないかな。

他力で自分を消すことを望むようになっていった。自分で死ぬこともできない勇気のないやつと追い込んでいった。


そしてこの気持ちを誰にも言わなかった。

同期も先輩もいつも気にかけてくれたし、優しかった。家族も恋人もいた。友人もいた。

でも吐き出すことの必要性が分からなかった。
そして限界だった。
そこを離れることで、自分を守るしかなかった。


それから十数年経ち、やっと気づいたのは
“自分の気持ちを周りに伝えていなかった”ということ。


私、自分の気持ちを何一つ伝えていなかった。

「もう働きたくない」
「生きるの疲れた」
「ストレス発散にカラオケ行こう!」

この言葉の裏の、本当の想いを察してもらいたいと思ってた。
言葉にしなくても分かるでしょ?分かってよ!と思ってた。

「みんなより知識が少なくて焦っている」
「ドクターにこう言われて傷ついた。これは指摘や教えではなく、パワハラではないか」
「この世界で生死を見ていると、人が死ぬことに慣れてしまう。少しくらいの自分の不調は、なんでもない、死ぬわけじゃないと無かったことにしてしまう」

こういう風に同期や先輩、家族、友人に言えば良かったんだなって現場を離れ、心の勉強をしたからいえることであって、あのときは自分なりに辛さを伝えているつもりだった。

ほんとうの想いを相手に伝えるのはすごく難しい。否定されたくないし、笑われたくないから大切にしまい込むこともある。
私は今でも練習中。
ねじ曲がって受け取られないように、まっすぐ届くように。
「私はこう思ってる」と言うだけなのに、それを口から声として出すことがこんなにも勇気のいることだなんてね。




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