【3】僕が僕であるために
歳を重ねていくほどに自分の持っている可能性というものはどんどんと削られていく。
可能性というのは、イコール「時間」だ。
時間を費やすことで、勉強してたくさんの知識を蓄えることもできるし、スポーツの練習に励むこともできる。音楽や芸術の感性を研ぎ澄ますのも良い。
時間がたくさんあると思えた10代の時は無限の可能性を感じることもできたはずだ。しかし、20、30と年齢の変化とともに時間の有限を突き付けられる。あれもこれもトライしていられるほどの体力も時間も無いのだと。
人生は意義のある悲劇だ。
それで美しいのだ。
生き甲斐がある。
-岡本太郎
なんで、なんのために自分は生まれてきたのかと自問自答した日々もあった。親を恨んだこともあった。
自分の一生で出来ることが限られてることも悟り、自分の能力が社会の中でどの程度なのかも分かるようになり、家庭のしがらみから抜けれなかった10代とは違った人生の絶望感を味わっている。
そんな自分の中にストンと収まる岡本太郎氏の一言だった。
"人の生は何を成したかで決まる"
これも好きな言葉だ。
自分自信が功績を残せたら良い。でも自分が日本代表になれるような身体的ピークは過ぎてしまった。もう何かを成すことはできないのか。
そんなことはない。自分が失敗したこと、できなかったこと、やるべきだったこと、今持ってる経験や知識を下の世代へと引き継ぐことで彼らは僕が10年費やした時間をショートカットして得ることができる。
そうした時にもし彼らが功績を残せる人間となったならば、見えないかもしれないが確かな功績はそこに存在しているように思う。
人生に辛い現実は多い。それでも生まれたからには人生は無駄にせず、生きた証を誰かの中に刻みつけたいと足掻いている。
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる