べてるアーカイブ35th(10) べてるの家の「当事者研究」(2006年)
向谷地生良さんが「当事者研究」について2006年に書かれた記事です。
「私という当事者との出会い」
私は精神保健福祉領域のソーシャルワーカーとして現場に立ち続けてきたが、その中で大切にしてきた援助者としてのわきまえに「私が出会った中で、最も扱いに困難を感じたクライエントは、私自身である」というのがある。それを、ある人は、援助者としての一つの「自己覚知」だと言うかもしれない。この「自己覚知」というのは、専門家として働く中で自らの行為がいかに他人に影響するかを観察すること、および、専門知識と技能を修得する過程で実際に活動中の自分自身を意識的に見つめることの必要性として説明されてきた概念である。特に今日では、援助者とクライエントとの専門的な援助関係にマイナスの影響を与え得る心理的な要因を統制するという必要性から、援助者の側に自己のあり方についての自覚と共に、援助者が置かれた社会的な環境の把握も含めた「自己覚知」が求められている。
ところが、私は先に述べた「最も扱いに困難を感じたクライエントは、自分自身である」とする立場を、「自己覚知」の一つとして括ることに、ある種の違和感を抱いてきた。それは、単に援助者としての私の内部で完結する「気づき」とするとともに「自己覚知」の概念の背後にある「自分の欠点を知る」ことの奨励への違和感であった。そして、その「違和感」の意味が、私の中で明確になるには、さらに長い時間と経験が必要であった。
その経験の中でも最も重要だったのは、駆け出しの頃に統合失調症などの精神障害をかかえる当事者への支援と、当事者数名と町の一角にある古い教会堂(後の「べてるの家」)を借りて同じ屋根の下で暮らすという体験を通じて痛感した「関わることの難しさ」であった。私は、気分の変動が激しく、少しの刺激にも反応して再発を繰り返し、岩のように硬い妄想によって引き起こされる幾多のトラブルや厚い自己否定の壁の前に呆然と立ち尽くした。そして、その経験を通じて、精神障害をかかえる当事者が孤独に陥り、地域の誤解や偏見の渦の中で孤立していくという問題の中心に「関係の障害」を見出した。
何よりも、ソーシャルワーカーである私自身が当事者と関わることの難しさに直面しているという現実は、疾患としての統合失調症などの治療や回復の困難さよりもむしろ、当事者と関係を築くことに対する私の「障害」と「私の生きづらさ」を一つの重要なテーマとして浮かび上がらせたのであった。つまり、私が関わりが難しかったのは、精神障害をかかえる当事者ではなく、その当事者と向き合うことを通じて見えてきた「私自身」だったのである。それは、費やした時間や熱意に反比例するように再発を繰り返す当事者に感じた苛立ちや、アルコール依存症の父親をかかえる家族を訪問する繰り返しの中で家族の厭世感情に呑み込まれそうになる中でおきる私自身の危機への対処(自分の助け方)の問題として、常に私自身の重要なテーマであり続けた。そのことが、当事者との「共同生活」するきっかけとなった。
「共同生活」は、あしかけ3年に及んだ。昼間は病院でソーシャルワーカーとして仕事をし、夜は事実上の共同住居であった教会堂で暮らすというのは、当時は「公私混同」と言う見方も含めて議論を呼んだ。しかし、実際に暮らした3年の間、私自身が味わった苦労(特に二階に住んでいた当事者が、幻覚妄想状態になって地域で巻き起こすトラブルには、ほとほと手を焼き、当事者をかかえる家族の苦労が身に染みてわかった)を通じて見えてきたのは、関わることの難しさ以上に、当事者の「人間としての顔」であった。その経験を通じて見出したのは、精神障害をかかえる当事者にもたらされる回復とは、疾患としての治癒や寛解とは必ずしも同一ではなく、人との「関係の回復」と「和解」というテーマであった。
当時の私が新米ソーシャルワーカーとして直面していたのは、自分が赴任した病院ではじめて採用されるソーシャルワーカーであるという緊張感と、東京都の二倍の広さに人口8万人という北海道の過疎地域のただ一人のワーカーであるという言いようの無い孤独感であった。精神障害を病むことによって、会社や大学をやめて、深い挫折感を抱きながら過疎に悩む故郷に帰ってきた当事者たちの不安や退院後の生活の困難さの中に、私は自分自身が初めて見知らぬ浦河の駅に降り立ち、眼前に建ち並ぶ朽ち果てそうな町並みを見たときに感じた侘しさや不安と同じものを見出していた。
そればかりではない。同時に私の視界に入ってきたのは、この過疎の町で事業を続けることに不安を感じている経営者、後継者難の牧場や漁業関係者等である。現在の地域の総生産額もバブルの崩壊以降半減したとも言われている。年収150万円以下で暮らしている人が町民の半分を占め、町内にある国の出先機関も整理統合されていった。その他、近隣の都市部への大型店の進出による商店街の売り上げの減少も重なり、人口減少・少子高齢化・地域経済の縮小・財政悪化が、地域そのものを弱体化させている。
そのような「誰もが弱者」という地域の中で、精神障害者の社会復帰とは、過疎に悩む地域や病院という複雑な人間社会の中で、社会人一年目の私がどう生きていくかという切実な私自身の「社会復帰」と、地域再生の課題と同じテーマとしてあった。そのように、「私が出会った中で、最も扱いに困難を感じたクライエントは、私自身である」というわきまえの背景には、自分が一人の援助者である以上に、この地域で生きる一人の当事者であったという固有の経験と、地域全体がかかえる「当事者性」との出会いがあった。さらには、日夜、さまざまな危機や困難を生きている精神障害を持った当事者と「援助関係」を通じて共有された現実を生きて、「身体としてわかる」体験によってもたらされたものなのである。
「ガッカリしないという立ち位置」
「当事者研究」とは、北海道浦河町にある「べてるの家」をはじめとして、統合失調症など精神障害をかかえながら地域で暮らす当事者たちの中から生まれた活動である。その特徴は、当事者が地域で生きていこうとする中で起きてくる様々な生きづらさ(幻覚や妄想などの症状に翻弄される暮らし、薬の副作用、気分の落ち込み、対人関係、仕事等)の生活上の苦労に対して、専門家と連携しながら当事者自身が仲間と共に、ユニークなアイデアや対処法を持ち寄って「研究」し、現実の生活の中に活かしていこうとすることである。
当事者研究の基本は、日常生活上の出来事、困りごとを素材にすることである。それは、病気の症状であったり、人間関係であったりする。当事者研究を通じて、「捉われ」が「関心」に、「悩み」が「テーマ」になる。起きている出来事のパターンやメカニズムを絵に描いたり、みんなで演じてみて、その中で「ああだ、こうだ」と楽しく、時には笑いながら、ユニークな自己対処法についてのアイデアを出し合い、計画を練る。「作戦を立てる」という言い方もする。そして、必要に応じて対処の仕方を練習し、日常生活上で「実験」して効果を確かめる。効果があればそれでOKで、なければ次のセッションで再検討というのが、一般的なスタイルである。
その「当事者研究」という実践活動が浦河ではじまったのは、2001年の暮れも押し迫った頃であった。それは、幾多の自傷行為や他害行為(爆発)を繰り返す中で、家も焼失し、家族共々心身ともに疲弊しきった状態で浦河にたどり着いた、一人の統合失調症をかかえた青年との出会いがきっかけである。しかし「浦河で何とか立ち直りたい」と言う彼の思いとは裏腹に、新たな生活ではじまったのは、今までと同様の「問題行動」であった。新作のゲームの購入を脅迫紛いに親に要求し、断られると暴れた。渋々お金を渡しても、一日遊んだだけでまた別のゲームを要求するばかりでなく、「寿司が食いたい」という要求は親への脅迫の常套手段で、親がそれに屈するまで執拗に続いた。親もさすがに耐え切れずに自制を求めたところ「待っていました」とばかりにキレて病院の公衆電話を壊すなどという事態を繰り返していた。
そのように彼は、まるで周囲やスタッフの懸命の関わりを無視するかのように、次から次へと問題を巻き起こし続けた。公衆電話の破壊を父親からの緊急の電話連絡で知った私は、主治医と連絡を取った後に彼と医療相談室で話をした。本人だけでなく、実は彼をサポートするスタッフ全員が、度重なるこの現実に内心深く傷ついていた。そんな彼を目の前にして、私は、必死になってこの現実と向き合う言葉を探していた。そして、私は言った。「大変だったな・・辛いな・・、恐らく君は、自分自身に一番今、ガッカリしていると思うけれど、悪いけれど、私は全然ガッカリしていないからね・・・」彼が浦河に来て以来起こした様々な問題行動を羅列しただけでも、誰もが我々の敗北と、治療の行きづまりを認めざるを得ない瀬戸際の中で、私は、一人の援助者として、この現実の「どこに立つべきか」を必死に探していた。そして、見出したのが「ガッカリしない」という「立ち位置」だったのである。
さらに言ったのが「一緒に君自身の助け方を研究しよう」という提案だった。その瞬間、深くうな垂れ、自分の現実との向き合い方に戸惑うように視線の定まらなかった表情がさっと変わり、彼は真剣な眼差しでこう言った。「やりたいです。是非、研究をやりたいです。よろしくお願いします!」それが「当事者研究」が生まれた瞬間であった。
以来、浦河では様々な場面で「研究しよう」が合言葉のように私達の日常生活に根付くようになった。その意味で、先の青年は最大の功労者である。精神障害をかかえながら生きようとする中で起きてくる様々な苦労や生きづまりが、「研究テーマ」としての関心となって、「観察者」の視点を持ってそれらに向き合う勇気へと変えられるのである。
一人のメンバーが、「当事者研究」を称して語った言葉の中に「昔、毎日が爆発、今、毎日が研究」というものがある。実に的確に当事者研究が、自らの生活にもたらした変化を物語っている。それは、現実がいかに「爆発」という惨めな状態であっても、そこに「研究」という立つ位置を見出すことによって、存在への勇気が与えられるのである。その意味で、当事者研究の意義とは、精神障害をかかえた当事者自身が、自らの固有の生きづらさと向き合いながら、それを人とのつながりの中で問い、にもかかわらず生きようとするところにある。
しかし、当事者研究は、単なる生きづらさを抱えた当事者の問題解決のためのプログラムではない。最もシンプルな当事者研究とは、現実の課題に向き合う「態度」であり、「考える」という営みを取り戻すことであり、「人とのつながり方」なのである。このことは、当事者研究の重要なキーワードとして用いている「自分自身で、共に」の中に理念として込められており、「自分自身で考える人たちが、ともに哲学するときにこそ、物事の本質に迫ることが出来る」というフッサールの言葉に由来する。
実は、ここで最も重要なのは、当事者研究のはじまりは、「爆発」を繰り返す一人の青年のためだけにはじまったプログラムではないと言うことである。あの場で、実は、当事者研究というプログラムを最も欲していたのは、紛れも無く援助者としての私自身であったからである。藁にもすがる思いで浦河を訪れた一人の青年と家族が直面した、たび重なる「爆発」という敗北感漂う現実に向き合わされる中で、私自身が懸命に、自分自身の「立つ位置」と、この現実を物語る言葉を探していたからである。
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