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べてるアーカイブ35th(3) 「治さない医療」

1999年に川村敏明先生と向谷地生良さんが参加した講演会の記録です。場所などは不明です。

川村
今、紹介した4人はたまたま私の患者さんです。あんまり良くなっていない事が分かると思いますが(笑)、「治す」ことだけが大切でない事もある意味では伝わったかと思います。 

私は医者としてはちょっと変わってる方なのかと思います。はじめから医者を目指していたわけではなく、北大(北海道大学)の水産学部に行っていて、そこを中退しました。高校のときも300人の内270番という成績で、あまり医学部に入ることに関しては自信があって行っていたわけではありません。医学部を目指して2~3年かかって入学し、すぐに落第して、何か医者になってからやっと卒業できたという感じがして、へとへとになっていました。非常に、医者になったまでの経歴がいつもハラハラドキドキで、進級試験のたびに綱渡りをしてきました。メンバーと同じで、夕方まで部屋にこもって、暗くならないと外にでられない時期もあった。そういう経過を経て医者になった。そういう経験があったからなのか、卒業のときに精神科を選んで何か心地いいような気がした。感覚を大事にして生きてきたので、ここ(精神科)がよさそうという感じで選んだ。あまり、堂々と医者になったわけではないということが、今につながっていると思います。

私は精神科医になって1年は大学にいましたが、2年目から出張研修に出ました。医者になった2年目がちょうど浦河でした。2年落第したおかげで、私と一緒に入学した先生が2年前に医者になっていて、ちょうど浦河に赴任して戻ってきてた時に大学で一緒でした。 浦河の話をたくさん聞いていたので、迷いなく浦河に行こうと決めました。そして、浦河に来ました。

当時、私は「治せる医者」になりたくて、病気が治れば幸せになるだろうと思っていました。でも、実際の自分は治す技量を、治療技術を持っていたか。当然ながら、医者になって2年目でしたから実力不足でした。当時の私は「優しい先生」に見られたい。 「一生懸命の医者」に見られたい。しかも、当然ながら目立つ病気のところが見えればそこを何とか変えたいと思っていました。その時、入院していたのが早坂潔さんでしたが、何で入院していたのかよく分からない。いつもたばこを吸って、吸っては行けない病室でもたばこを吸っていた 。生活保護のお金が入るとすぐに借金を払って、コーラを買って2~3日もするとまたお金がなくなって、また借金をしてたばこを吸っているという暮 らしをしていました。早坂潔さんとつき合うとき、早坂さんばかりではありませんが、何か治療的テーマを見つけて変えようとするときに、治療すればするほど、早坂さんは自分にとっては掴み所のない正体不明の人間でした。結果的には、いつも私は挫折感を伴ってました。

もし、私と早坂さんが狭い意味での治療関係だけを考えると、早坂さんは問題が大きくて、私には治す力がないという事だけで終始してしまう。早坂さんだけでなくどの患者さんもそうですが、治そうとしていたとき、相手を変えようとしたときの現実の壁の大きさというか、そのことの大きさの前にたじろぐ、無力感になる。その事を認めてしまったら、自分が医者として成り立たないという危機感があって、認めたくないし、感じられたくないし、そうすると、僕はやっぱり、ただ意欲的に見せるか、相手の更なる病気の弱点を見いだすしかなくなる。病気が悪いんだから、入院は当然。地域の中で少しでも問題が起きると、すぐ入院することを私たちばかりが決めていく。しかも、治療は非常に管理的です。それが、私たちが「治す」というふうに考えたとき、相手に病気の問題や生活上のトラブルが生じたときに、治す立場から考えると、少し嫌な感じはするけど、でも当然だという意識が先立つ。私たちの弱さとか、 治療側の問題とかそういうことに対する捉え治しを当時は全然出来なかった。しかし、それが精神科なんだという常識がありました。

それは、今も変わらない現実がいろんな地域の話を聞いて感じます。そこには、どうしても管理的な医療といものが高い位置から、当事者の患者さんたちを見下げた、高いところから与えていくという関係でしか成り立たない。これは非常にお互いが苦しい関係になっていく。そういう感じが明らかにする。でも、早坂さんを例にすると、早坂さんの問題を一生懸命治そうとすることは、どこか違うのではないかという予感があったことは間違いない。この人のこの生活を、こういう行動を一生懸命変えていこうとすることは、何か違うのではないかということが私の中に予感としてありました。しかし、それが何なのか私には分からなかった。だから、違うと思いながらも、分からないなら違うと思うことも 一生懸命やらなければならない、そういうジレンマみたいなものがありました。

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入院中の早坂潔さんと川村先生

でも、当時、赴任してきたとき向谷地君がいて、当時は考えられないくらい暇があって、午前中はただただ半日くらい喋っていた。それを毎日でも出来た。向谷地さんの仕事は夕方忙しくなるので、日中はわりと暇だった。僕らも、患者さんとソフトボールをしたり草むしりをしていた方が、何となく精神科らしくて、カンファレンスなんて全然なかった気がする。本当に毎日、何をやっていたのだろうという感じがします。拒薬する患者さんにどうやったら薬を飲ませたらいいんだろうかと迷うことのない看護者がいい技量があるというように語られていた時代だったと思う。早坂さんが、当時の退院で印象的なのは、極めていい加減さそのままで、そのことがいいという退院だった。退院したって、上 手くいく保証はないが、まずかったらいつでも病院に戻ってきていい。でも、病院にただいても何もならないから、教会のそばの住居があるなら入ってみたらと向谷地君と相談して決めた。再入院を防ぐために頑張るという姿勢はまったくなかったし、私たちも早坂さんにそんなにムキになっても仕方ないというこも分かっていた。このままいても、当時すでに何年間も入院していた状態でしたから、早坂さんにとっても新しい生活の始まりであったかも知れませんが、私たちにとっても新しい芽生えだったように思う。

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