【掌編】アキヲ
「アキヲヲヲン、どこ〜?」
トモコが夜の新宿歌舞伎町二丁目辺りをウロウロする姿は、まるで幽霊のようだった。
最近じゃホームレスみたいなおじさんが道端で、たむろしてる前も平気で通り過ぎる。冷かそうにも悪い薬でもやってるのでは?という風体を訝しむおじさん達の方が避けて通るくらいだったが。
昨夜また、アキヲが夢に出て来た。彼女はトモコをじっとあの大きな黒い眼で見つめている。オナベバーのニューマリリエールの前で立っているかと思えば、トモコが以前勤めていた、BAR・アクの前でニコニコ笑っていることもあった。
過去、生活を共にしていたアキヲは、時々、前触れもなく、トモコの前から行方をくらますことがあった。その時はいつも音信不通になった。トモコはそのたびに落ち込み、鬱状態に陥り、仕事が手につかなくなり、挙げ句やめてしまった。現在は、実家からの援助で細々と日々を暮らしていた。そして、トモコはアキヲが帰ってくることを日々願っていた。
──きっと、また戻って来てくれるよね。お願いアキヲ──。
夢の話しに戻る。アキヲは行方をくらましてから数年ぶりにトモコの元に戻ってきた設定になっていた。トモコを優しく抱きしめながらなにかを耳元で囁いた。
『トモコ、ずっと──』
その続きは聞き取れなかったが。しかし、それは夢じゃなくて、もしかして本当に戻って来ていて、マリリエールで働いているんじゃないか?ただ私から隠れているんじゃないか?と、トモコは思い込み、店の前でウロウロし始めた。ついにトモコは鬱だけでなく、夢遊病まで併発してしまったのだろうか…。
まさしく幽霊さながらにさまよい歩くトモコの姿を、ユキヤは時々見かけて胸を痛めていた。ユキヤはアキヲのかつての同僚で恋人だった。今考えると甚だ変な話だったが、トモコとユキヤはアキヲのことを、彼女の心と体とを共有していた。つまり、アキヲの奔放な性格ゆえに彼女自身、どちらかを選ばずに、トモコとユキヤに二股をかけさせていたのだ。トモコもユキヤもそれを甘んじて受け入れていた。そんな状態が何年か続き、再びアキヲは行方不明になった。
ユキヤは、店の前でヨロヨロと座り込みそうになるトモコを見兼ねて、その腕を掴んだ。トモコは力の無い眼でユキヤを見上げた。
「……トモコさん、大丈夫ですか?しっかりして」
「ユキヤくん…。久しぶり」
「久しぶりじゃないよ、貴女は、まったく。お店の人達やお客さん達に迷惑だろ。警察呼ばれたらどうすんだ?」
「だって…、アキヲが戻って来てるかもって思って」
「はあー。いい加減目を覚ましてくださいよ?」
「…覚めてるわ」
「なら、わかるでしょ?アキヲさんは戻ってませんて。だいたい戻ったならまず貴女の家に行くんじゃないですか?」
「アキヲって、ユキヤの方が仲良かったじゃん。深ーい仲だったじゃん。あんた私たちの間に割り込んできたくせに」
またその話か。と、ユキヤはうんざりした。確かにアキヲに横恋慕したのが始まりだけど、それは一時の気の迷いだ。アキヲに恋していたのは事実だったし、トモコに迷惑かけたのも事実だ。だがすべて一時の気の迷いだったんだ、と自分に言い聞かせ、ユキヤなりにアキヲの居ない寂しさを誤魔化してきたのだ。
「僕は、とても後悔してますよ。だってアキヲさんはひとつ所に落ち着けない女ですよ?トモコさんは僕よりもそのことを身に染みて分かってるはずでしょ」
「夢の中でおいでおいでーってしてたもの。虫の知らせかも知れないと思って」
「だからって街ん中ウロウロしないで、家に帰りましょうよ。……僕は思うに、アキヲさん、すでに死んでるのかもしれないんじゃないかな?」
「…そ、そんな恐ろしいこと…ユキヤが言うなんて」
「だって、おいでおいでしてたんだろ?もうそれって死んでるよってサインじゃないかな。奔放で淫乱なアキヲさんに罰が当たったんだよ。当然の報いだな」
「そうなのかな…、そんな、アキヲがいくら勝手な女だからって…、あの子に振り回されっぱなしだった私達にも問題あったし」
ユキヤは、むぐっと呻いて口を噤んだ。トモコはその場にへたり込み、さめざめと泣き出した。ユキヤは腕組みして見下ろした。──このまま放っておこうかなぁ……。いい加減、僕としても手に負えなくなってきたよ。声に出してよほど言ってやろうかと思った。
「うえええーん、アキヲー、」
「トモコさんてば、しっかりして」
「うるさぁい、黙れ、バカ!」
「なんだと?このやろ、バカ女!おまえなんか野垂れ死ね」
「バカ女ってのは、男になり損ねたあんたのことよ」
「そう言う差別は今どき流行らないですよ、下手すりゃ捕まります、訴えられます。いっそ僕が警察呼ぼうか」
「私、酔っ払ってもいないのにぃ。もういいわ。行くわ、去るわ、こんなヤクザ鍋共のお店なんて」
「…ヤクザ鍋ってどんな鍋だよ」
トモコはひとしきり鼻水や涙を流してから、コートの袖でぐいと拭って立ち上がった。まだ足元がおぼつかない。ユキヤは再びトモコの腕を掴んだ。
「ダメだ、やっぱり放っとけない」
「どうするの?なにする気!?離して痴漢」
「あんたみたいなオバサンに痴漢する物好きいないよ!」
「わ、私がオバサンなら!あんたもそうだかんね!」
「はいはい、もーかえりましょーね」
「送ってよ、ナベオバサン」
「殺してやろうかな?」
「お巡りさん、人殺しです〜」
「うるせぇ、とっとと行くぞ」
トモコは言葉とは裏腹にユキヤの腕にしがみついた。ユキヤはトモコの長年の孤独をよく分かっていた。けど、あの人は、アキヲは僕らの前からとうに去っていったんだ。なにも言わずに消えた。そう言う女だった。それだけのことなのに。一瞬、胸に、ちりりとした痛みが走り、僅かに眉根を寄せた。
──幽霊。でも実在してたんだ確かに。一緒の時を過ごしたんだ。だから僕の心から居なくならない。出て行ってくれない。いくら思っても彼女は帰って来ない──。鼻の奥がツンとして、しょっぱい味を飲み込んだが、トモコに悟られないようにしていた。
トモコを半ば引きずるようにして、新宿駅まで励ましながら歩いた。ユキヤだってアキヲの失踪はかなりショックで、立ち直りきれないのだ。要するにトモコに対してあまり偉そうなことは言えないのだった。
いまだ、己の心を支配するアキヲを憎たらしく思う。でも嫌いにはなれない。矛盾を抱き苦しむ日々は続くのだろうか。
──でも。トモコがこんなじゃ、僕がしっかりしなくては─。とも思う。アキヲは死んでいるんだ。きっと。でなければとっくに僕らの所に戻ってきてるはず。死んだと考えなければやってけない。過去に心を縛られたくない。弱い自分が悪いのだ。
「アキヲヲヲン──」
トモコが隣で呟く。ユキヤは思わず笑ってしまった。
「──無様だなあ」
「ユキヤ?」
「はい?」
「アキヲ、死んだってあなたは本当にそう思う?」
「本当なんて知らねーよ。けどそう思わなきゃ、やってけないでしょ?トモコさん、死んだ人にいつまでも関わってないでもとの馬鹿なくらい楽観的なトモコさんに戻ってくださいよ。また、お店で待ってますから」
「──うん、今、ちょっと酷いこと言ったよね?」
「細かいことは忘れなよ。じゃあ、また」
ユキヤは踵を返してヒラヒラと手を振った。トモコは彼女の背中をぼーっと見送った。ユキヤと知り合ってから、10年近くの歳月が経っている。彼女も元女の割には随分と男っぷりを上げたように思う。別に恋してるわけではないが、素直にいいヤツだとそう思った。──ユキヤってば、あんなにアキヲを好きだったのに。死んだ人だなんて割り切ったフリして──。自分も見習わなければならないのに、いまだにアキヲの幽霊に取り憑かれたままだ。──そう、彼女はもう死んでいる。夢枕に立つ彼女は、もう、向こうがしに居るに違いないんだ。でなきゃ、おいでおいで〜なんてしてるわけがない。彼女は周囲の人を巻き込む性格だったから。そんな彼女らしく死んでもまだ、私達を見て楽しんでるんだ。
実を言うと、夢の中でだけじゃなかった。ネオンの灯りの下で半分透けたアキヲの姿を見かけたことがある。咄嗟に目を逸らしたが、もう自分はこの世に居ないのだと、トモコに示していたのではなかろうか。
最近じゃ見える頻度が増していたし、さっきだって、ユキヤの肩に腕を回していたのだ。ユキヤが歩き出すとフッと消えてしまったが。
トモコは霊感があるわけではないけど、アキヲの死を感じていた。ユキヤが指摘するように、認めたくないわけじゃない。ただ、アキヲの影をいつまでも追い続けていたかった。トモコ自身の願いでもあった。苦しくてもそれでいいと思っていた。──私は変わりたくない。変わるつもりも無い。貴女と私はずっと──。
──ほら、また灯りの下に居る。私を見てた。私も彼女を見る。手を振ったりしないが、頷いた。また夢に出てきて、私を慰めて──。
夢の中でアキヲは優しくトモコになにかを囁く。
『──ずっと、一緒に居ようよ』