それは愛ですか(11779)
母に会ってきた。お正月、実家に帰って、もう高齢で半身不随が悪化してきている母に、2年ぐらいぶりに。コロさんを持ち帰る訳にも行かず自粛してたので久しぶり。でもそろそろいーかんげんに…だっていつコロっといつ逝くか分からないじゃないですか…。
「幼い頃 少し寒い実家でひとり寝かされながらじっと 外の音を聞いていた感じ 」
… そして年月が過ぎた。我が家の父は、仕事と自身の学者としての研究に没頭して家族を顧みない、甲斐性のない男であった。母は、そんな父に不満一つ言わず、沢山いる私の兄弟を(もう成人してからも)支えるべく働き続けていた。我が家は基本、両親からの愛に包まれていたと、今更ながら思う。父からはさりげなく一言程度で、母からは結構しつこく、いろいろなことを心配される質問を受け取りながら私は育ったのだった。それらへの返事は、私は喋るのが苦手である身体の性能以前に基本寡黙で、端的に一言で答えるだけのお返しが常、だったのだが、そういった沢山の質問こそが、愛なのだと、今更ながら気がついていた。なお、他の家族についてだが、歳の離れた兄が二人いて、すでに結婚して家族がいる。また妹はシングルであるが息子を育てながら、みな実家に程近い地域で生活していた。私は高校をなんとなく出たあとほどなくして上京して離れていた。上の兄は小うるさく、弟妹へのしつけに過剰に厳しく、しかしそのおかげで私はだいぶ精神が鍛えられたことは事実なのだろう。しかしその兄は生活・職業は安定しておらずその家庭は貧乏だったのは常に家族全体の問題であったし、兄の小うるさく攻撃的な性格は(特に父と、私の妹へ向けられた)大人になっても変わらず、母以外の皆からいつも、実家で出会わないようにと時間調整を画策されるなど、敬遠されていた(が往々にしてそれは失敗した。兄は兄の家族愛からか集まりたがるのだ。で勘が鋭い)。その兄の嫁は何事も威勢よく笑って済ませるタイプで、まさにうってつけで良い方をもらったものだと誠に思う。子沢山で。その弟、2番目の兄のほうは、私より先に四書を読むなど聡明なところがあり(小学生の私が読む前に中学の兄が読んだ、それを借りた)、常に我関せずという風で、私ほどではないが、何事に関しても距離を置き、美味しいところはもらって帰るが何も家族にお返しもしない、害のない兄であり兄家族であった。聡明であると書いたが、仕事は目立ったものは無かったように見える。その兄の嫁はいつも遠慮がち・病気がちで(仮病かも)、警戒しているリスのような風貌であったのだが、私ともあまり喋ったことはないのでどんな人か、今もってよく分からない。下は妹が一人いるのだが、彼女とは幼い頃から私とはうまくいかず、というか一方的発作的に暴力をふるわれて泣かされたのはいつも私の方だった。そんな妹は高校を突然中退して上京し、もとから中学一・高校一美人だと言われていたこともあったからか突然アイドルになってしまい(ロコドルなどではなくメジャー級、TVにも出てた)、その後すぐに落ちぶれ、クラブで働きトップとなるなどし、クラブの売上を盗んで逃げた男と駆け落ちして実家に押しかけ戻ってきて、息子をもうけ、その後シンママになったのだが(この間ほんの数年の出来事)、相変わらず私とはぎくしゃくしているが、破天荒だった彼女の性格は大人になり怒涛の人生経験によって矯正されたのか、だいぶ落ち着き、スナックのママをしつつ介護士の資格を取り勤めているなど勤労で、そして母の面倒を見てくれている。その妹とは今はお互い不干渉を貫いている、というのが私の家族の全貌である。その家族全員に、私は喋るのが苦手であるこの身体の性能以前に基本寡黙を押し通していた。
こんな風であるが、私はこの家族皆とあまり関わりたくはないし余計なことを喋りたくもないが、この家族に愛が無いなどと誰彼から否定でもされようものなら、私は命をかけてでもその口を覆すべく戦う覚悟でいる、気がしている。今そう思った。
そんな元気だった母が数年前、仕事場で倒れたと、私が東京にいる間に連絡があった。そして半身不随になってリタイアしたということであった。
それからしばらく私は、なるべく会いに東海道を往復して実家に帰るようにしていた。普段は介護士をやっている妹が積極的に見ていてくれているらしい。それにあの父が仕事は完全に引退し、慣れない家事をしたり母の世話をするようになったらしい。私はなるべく母に会いに実家に帰って様子を見るようにしていた。と言っても私は変わらない。変わらなかった。話すことが無いのだ。私は家でも(職場でも基本は無口だが)、寡黙なのだ。普通の家庭では、おのずから、兄弟や家族に、何を話すのだろう?必要なことは知っているじゃないですか。他に知るべきことって何があるのか。私は質問が苦手だ。それとも、自分の近況を話して意味があるのか。やはりそれによって聞きたい返答が思いつかない。では何にも関係のない、まさか天気の話しでもするのか、関東の?それとも、もっとポジティブに、親族の繁栄のために、家族には少しでも状況が良くなるようにと、助言などをしあうのが普通なのか。兄たちに、どうせなら自分から仕事を作るような行動をとったほうが良いだろう、一番儲かるのは、というか今の時代そのくらいしないと将来貯金なくなると思うのだけど、とか前置きして、仕事に不満とかがありながら続けるならば、自分で会社を作れば良いじゃない。それも、売れる会社・事業を作って、そして売りなよ、とか、言わない。普通は家族に助言など気が付いたらするのだろうか。思ったことを言うのだろうか。それが分からない。そいういうわけで自分、余計なことは言わない。自分の些細な身の回りのことなどはなおさら言わない。仕事はもちろん職を変えたことなど言わない。趣味や、交友関係のこと、骨折をしたこと、車を買い替えたことなど言わない。猫が死んだこと、新しく飼ったことなど言わない。海外旅行したことも、1ヶ月海外に住んでいたことも言わない。実家の近辺に住んでいるであろう、親も存じているような昔の友人のことなども、今や私自身どうしているか知りもしないし話し得ない。私は絶対に無口である。が、そういえば、飼い猫についてはみな猫好きなので写真を見せて話すことはあるか、そういえば。
逆に、家族から話しかけられるのか、聞かれるかどうか、については、私が話好きでないオーラを常に醸し出しているので、みな接しにくそうであるのは自明である。父母にとってもそう思われていることは分かるし、それが良くないことも自覚しているので申し訳ない。それを憎しと考え接してくるのは長兄のみである。で、父からあるとすれば、「仕事は順調なのか」、と聞かれるので、「うん。(以上)」、と答えるくらいしか会話がない。離職してても、あり得ない責任取らされて裁判になって東京高等裁判所に出頭した経験があっても、ひょんなことから社長になってても、それを畳んでも、徹夜続きでも、そんな近況は言わない。兄弟に仕事を聞かれたら、「IT関係」「経営の・・補佐いえ、秘書というか雑用みたいな」と言っておけば、それ以上は質問されない。会社名?「誰もが知っているようなアーティスト擁する会社…」とは言わず「誰もが知ってる会社とかじゃないから言っても分からないと思うよ」と嘯いて済ます。上の兄は、言いたい放題、私に何かしら説教してくるか、または偏った政治感の意見や、自分の趣味、ミリタリーの話しなどを勝手に話し始めたりするが、私はすでに対処方法をだいぶ獲得できていて、適当に相槌を打って、真意とは異なっても適当に賛同しておけばやりすごせる。決して、ドイツ軍戦車のティーガーよりもソ連のT-34のほうがロマンがある、などと言ってはいけない。
妹は、特に、近況を質問してこなかった。ましてや彼女に頻繁だった恋愛事情が私の方はどうなのかとかも、決して聞かれない(無いが)。実家のお茶の間で二人、向かい合う席に座ると、妹はじっと私の方を眺め続ける様子を感じて、それに対して私は直視できず蛇に睨まれた蛙よろしく硬直するのだが、しばらくの沈黙ののち、妹は自分のことを、あまり大事でない物事を選んで一人で話してくれる。若干の緊張感はあるが、ラクである。妹は私のことを理解している一人、と言えるのではないだろうか。今そう思った。
母はそこは違う。母は、父が家事が下手なことを私に愚痴りつつ、父に指示をしながら、毎回、リハビリが大変だという話を私にする。そして、自分が不具により簡単なことも出来なくなったことを思い出すように私に淡々と語りながら、半泣きになるのだった。また、こんな状況になってこそ優しくなった父に謝意があることを述べたり、今が幸せ、などと嘯く。母はおしゃべりなのだ。私はそれを聞いても、うん、うん、と答えるしかもはや対抗策を持ち得ない。そして私から話すことといえば、片付けを手伝おうかという提案と、何か必要なものを買っておこうか、という提案と(近所のコンビニで買えるもののみならず、もっと住みやすい家や車を用意しても構わないのだが、そういう要求は頂かないな)、また、母は何が食べられるのか・食べたいのか…次にそれをお土産に買ってくるから、ということぐらいしか質問できない。質問するのは本当に難しい。母がどんなものを食べられるかは、年々、だんだん咀嚼の優しいもの・柔らかい物になってきて、ついには舌の上で溶けるもの以外は選択肢がなくなってしまった。この先は母は実家で生活し往生できるのだろうか。その実家のその一階の部屋は、歴代のご先祖たち、祖父母、おばがそのベッドで亡くなっていったのを私も覚えている。そこに母が今、しばりつけられている。他に話すことといえば、ここに来るまで何時間かかったか、駅から何を使って来たか、兄やその家族が(いつ)来る予定なのか、ぐらいである。本当に、普通は、家族に、何を話すのだろう?会話って難しい。誓って釈明しておきたいのだが、私は、仕事などで必要な時は、十分でも(マイク越しに)話し続けられるし、千人の社員の前でもプレゼンすることも出来るのだが。しかし家族の前で必要もない話しをするというのは、とんと分からない。
さてそんな今年のお正月、久しぶりに実家に帰った。事前に母に、LINEで伝えておき、父には電話しておき。母はそのLINEの返事で兄弟に連絡しておくというが、私は断る返事を即座にしようと思ったが思いとどまって「うん、じゃあ、お構いなくね」とだけ返事したのだった。なお、LINE、という文明の利器であるが、私は家族(母と妹)としか使っていない。なお、母はスタンプを送ってくるが私はスタンプも使わない。LINEは苦手だ。もちろん、仕事などで知り合った人(男性など)と強く要望されて交換したことは今までもあるが、速やかにブロックだ。
実家の町は数年ごと帰るたびに、二つある駅の間と実家の手前までの通りが、本当にどうやったか不思議なぐらいにがらりと様相が変化する。その歴代の市長の悪政により開発されているのだが、そこに何ら新しい店やマンションなどが建ち並ばない。町には立派な大きな有名神社もありそこをフィーチャーしたがっているのも分かるのだが、店が増えないどころか開発によって減っていく。遊ぶところ(映画館や大きいデパートなど)は昔はあったが撤退し続け誘致できず、空き地はあるのに何も無い。人口はやや微増らしいが、年々寂しくなっていく。こんな町を好きな住民はいるのだろうか、甚だ疑問である。そして実家に着くと、父母が歓迎してくれたが、やはり大した話すこともなく居づらい時間を潰す。母は明らかにさらに動きにくくなってきている。介護もほぼつきっきりになってきたらしい。父が買ってあった小型のおせちの重箱を不器用に開けると、その開け方に母が愚痴をこぼす。父がお皿とお茶を出すと、その、どの茶棚からどれを出したかのセレクトで母が愚痴をこぼす。私もだめだこりゃ、と即座に思うが言わない。見ると、洗い方が足りなすぎるので、私は立ち上がって全員分の食器と、洗い残ってる食器をごしごしと強めに、さっさときれいにして出し直した(男の食器の洗い残しは力が入ってないからである)。そうこうしているうちに妹が来て、兄と嫁とその子らがきて、賑やかになる。お正月の挨拶と、適当な質問に適当に答えることで時間をやりすごすことができて助かった。もっとも、兄とは少し前の映画「ダンケルク」が名作か眠かったかで危うく論争が激しくなりかけたが(私の意見は眠かった、である。展開が少ない。脱出するだけの1場面しかないという珍しい映画なのだが、兄によるとそれが戦略上非常に重要だったので、だから…、おっと、この話は本記事の題材に関係無いのでやめておこう)。甥っ子たちに用意しておいたお年玉をあげたりもした。私がどれだけ邪悪かをまだ察知していないのだろう、小さい子は素直で可愛い。こんな風になるなよ、と私は心でつぶやいた。彼らの母親は、この私などとの場合でも、「さあ、ちゃんとお礼を言うのよ、あ・り・が・と・う・って」などと、ここぞという時を狙って躾をつけようとするが、あなたが私に謝辞を述べたほうが良いんじゃ無いかと思うのだが。理解しにくいな、子を持っていないのでどういうロジックでそうしているのであろうか。兄家族達は実家のおせちも食べ尽くしたし、1番の目的も果たしたようで、満足して帰って行った。
妹が他の部屋に掃除か何かに行っている間に、母は妹の状況を話してくれた。相変わらずまた新しい恋愛をしていて、その男に苦労しているらしい。母はその男に愚痴ると共に、妹にも愚痴っている様子だ。そして私に同意を求めているのだろう。そんなダメ男、すぐに捨てれば良いのに、と。妹は美人で器用なのだから、まともな男はすぐ見つけられるんじゃ無いの、という意見も述べた(母に)。どうしてそれができないのかは不思議である。もっとも、確かにその理論を一般化して私に応用ができないので何か難しい理由が有るのかも知れないが(根本的に私に応用するなどは変数が間違いすぎているとか言わない)。そして妹は介護センターでなんと若いのにセンター長になったそうだ。それを依頼された時条件をつけ高額で応諾したと。さすがである。妹の機敏さ、したたかさは、どこか我が家族と遺伝子が異なるようだ。そうこうしているうちに、妹も戻ってきて、適度に一服したのちに、私はますます会話が無くなって困った。暇なので仏壇に手を合わせると、父母は嬉しそうだ。自分らも近いうちに、手を合わせて感謝してもらえると想像できて嬉しいのだろうか。理解しにくいな、私は無心で手を合わせる真似をしているだけなのだが。そこで父が、私にお墓参りに行ったのかと聞いてきた。もちろん行ってない。自分一人で我が一族のお墓に行ったことなぞないに決まっているのに、当たり前のように聞いてくれるな。ではと、ちょうどバスが来る時間なので、行こう、ということになった。私は実はちょっと高価なお気に入りのコートを羽織って、父と、少し寒い実家周辺の小道を並んで歩いて、何町か先のバス停に向かった。
道中。その通りは私が小学校低学年の頃、通学していた通りだった。もっとも、幼小中で7つの学校を転校で経験したので(同じ市の中でも数回…ばからし)、その実家周辺に実際に住んでいたのはごく一時期であるが。楽しかったな、その時期にできた友達とはよく外で隠れんぼなどもしたし、ゲームの貸し借りもしたし、素敵であこがれの子(女の子、男の子)もいたし、すでに結婚を誓っている小学生カップルもいたし(なんなのか)、すごく神秘的に思えた、自宅が教会であるそこのクリスマスパーティーに誘ってくれた女の子もいたし、また、神社では殺人事件があったらしいし、また近所の同級生たちとは特に仲が良く、詳しくは一生の秘密だが男女でお医者さんごっこなどをした。私は病弱ではあったが元気な時の私はその頃は積極的で、いつも自分から友達の家に遊びに行ったり、皆が集まる公園に通っていた。逆に遊びに来られることはよく考えたら少なかった、というか決まった一人ぐらいしかいなかった気がする。あれ?誰だったかな。もっとも重要なその子に限って、顔も、名前・あだ名すらも思い出せない…。
さて、その通りの風景だけは全く変わっていないように思えた。その頃そこに住んでいた友達は、もう大人になって、就職してもう居なかったり、または結婚していたり、親の店を継いでまだそこにいたりしているのだろうか。誰とも連絡を取っていないので、むしろまだ、そこに皆が住んでいる気がする。ピンポンと、訪問ベルを押すと、その時の背丈のままでその子たちが出てきそうな気がする。その時の友達たちと集まって、隠れんぼをしたり、神社の未知の領域を冒険したり、私がひと揃い持っている最新のゲーム機でゲームを披露したらみな喜んでくれるかな。お医者さんごっこは…、どんな手順で何をしたかはっきり覚えていないけども、お互いの裸を見せ合いっこするなどは楽しい気がする。夢のようだ。突然そこで我に返って、夢のような夢想を父の隣でしている自分がちょっと恥ずかしくなった。ずっとひび割れたコンクリートの歩道の表面ばかり見て歩いていたことに気がついた。今の私には、もうずっと、友達など、いない。父がたまに話しかけていたことに、私適当に相槌を打っていたことにも気がついた。私は、父には、特に興味がなかった。父は神学科で、神学・宗教・哲学・心理学・宗教系美術書、および仕事の経営学などの蔵書を1万冊は持っていて、どれもまさに非常に私の興味をそそるものばかりであることを私は知っていて、こっそり覗かせてもらっていたが、それを借りたり、その趣味について語り合ったことは失礼だが一度もない。また、父も最終的に、経営コンサルタントとして会社を作ったが、それほどうまくは行かなかったようであるが、それは母から聞いたことであって、父とは仕事の話はしたことはとんとない。
お正月なのに時刻には山の霊園に向かうバスに人が集まり、知らない人にもお正月の挨拶をしつつ、順に搭乗し、うねるカーブを登って行った。山上はさらに寒く、マフラーを忘れたことを呪った。父は私に、お墓参りのノウハウを教え込もうと説明しているようだ。私は気もそぞろであったが、そういう機会は今までもあったが(父の得意な話題なのだろう)、かつて無いほどに私は今回はそれを聞いていて、頷いたり、質問した。そろそろ覚える必要がある予感がしていたのだ。山肌に広がる広い霊園は、一体何軒のご家族の墓があるのだろう。お墓は増え続け、未来では地球を埋め尽くしていくのだろうか。いや、最近はビルの中のロッカールームに収まった、ITお墓もある。父は売店に入り、店員と話しながら、共花や蝋燭を買ったようだ。父の話し方は気さくであり、相手を気持ちよくさせるのも得意なようだ。そのコツは、知ってることもあえて質問する、とかか。母に対してはそのスキルは発揮できないようだったが。さて我が家の墓はその中ほどにある。それを水で綺麗にして、売店で買ったお花と蝋燭、線香を立てて、父のやる通りに私も手を合わせた。無心で。いや、無心ではないな。その時考えたことは、父と母はじきにそこに入るのだろう、兄はこういうのは結構しっかりやってくれるだろう、私は、よく考えてみればここに入るとは限らない。覚える必要、そういえばあるのか、だった。帰り道では父はあまり喋らなかった。父は、子供たちの中で一番、私を可愛いがってくれていたらしい。その話は昔からよく母から聞いた。母というものは、父親が子供と触れ合っている姿をみるのが嬉しいらしい。父は、そんな大人になった娘と一緒に墓参りをするのは幸せなことなのだろうか。多分、そうなのだろう。しかし私の態度は冷たくなかったか。私の意識は父にでは無く墓参りの手法と霊園の経営などばかりに向いていたし。それとも父の趣味の蔵書について語り合うほうが幸せだろうか。または、経営手法について語り合うとかか。いや、墓参りについて興味を示した質問をあびせるほうが喜んでくれそうだ。なぜなら父の最も得意な事柄なのだから、多分、そうなのだろう。帰りのバスから望む西山に日は沈みつつあり、罪悪感と、マフラーを忘れたことで夕方の寒さがいっそう強調され、ますます呪った。
山を降りると夜のとばりはおりていて辺りはすっかり暗くなっていた。実家に戻ると、妹はまだいて、母もまだしっかり起きていて、もう一人の甥っ子が来ていた。引きこもりの甥っ子だ。引きこもりだが、誰もあまり厳しく言わない。私も、何も言ったことが無い。昔からシャイだったが、ハンサムなのだが、家系ということか、教えていないのに音楽がよくできて、私のシンセサイザーを一式分あげて喜ばれて、その機材でバンドも組むことができた、ということもあったが、今は何も会話しない間柄になっていた。そのことで、私が怒っているとか、まさか思わないで欲しい。本当に何も思っていない。母(祖母になる)はもちろん、彼の親達も何も厳しいことはもう言わなくなっていたが、そちらは何も思っていないわけでは無いのだろうと、ハタから観察しているとわかる。そして、引きこもりの甥っ子も、何も思っていない、考えていないという訳でないということも、私は嫌というほどに実は分かる。私もそうだったから。いっぱい考えている。いっぱい一人で泣いている。応援するために音楽を指南もした時とか、きっかけはあったのに、掴めなかった。恐怖でますます動けなくなっているのだろう。そんな気持ちは、痛いほどよく分かる。だからこそ、何も言えない。…言うほう(私)も、勇気が足りないのだろう。ほどなくして甥っ子は自分の部屋に戻って行った。ちなみに2番目の兄家族はこの間一瞬顔を出して、用を成して、すぐに帰った。いつも通りである。そして妹も帰る用意を始めた。「どっちに帰るの」と私が聞くと、「んー、彼のうちに行ってあげないと。ほら、昼からほったらかしじゃん?だからきっと何も食べてないって!正月なのに!ぎゃははは」と、自分で言って笑った。妹が帰ったが、父が上にいるので母のことはあとは任せて、今晩は市内に予約したホテルに、早く向かいたい。そろそろ…、と言おうとした時、母が、二つのことを語り出した。
一つは、元気だった母が、仕事場で倒れた時の、詳しい話しだった。母は、仕事が、その職が(アパレル)大好きであったから、しかし悪い状況がしばらく重なって苦しい状況が続いていた中での発症だったらしく、母は語りながら取り乱すほどに涙した。私も驚いた。いつも母はどんな状況でも幸せで、うまくやっているものだとしか思っていなかったから、そんなに母が好きな職場でありながら困った状況が重なり、精神的体力的に苦しい状況にあったなど、先に知っていたら言語道断であり、私はどんな状況でも飛んできて母を助けようとしただろう。まったく思いもしなかったことであったし、また今回の病気も、年齢が原因だから覚悟、としか考えてなかった自分を恥じた。大好きな人が、心労はなはだしく、かつ、体力・体にまで害と不安を及ぼす状況になるなんて、そして障害を得るほどの事態になるなんて、本当に許せないし、悔しいし、こちらとしても辛すぎる。母が辛い思いをしていていることなんてほんの数回しか今までに無かったから、私の方も珍しく胸が本当に痛い気がするほど苦しくなりつつも、泣く母を私は席を立ち抱き抱えてであるが、母は続けて次の話をし出した。
母が妹のことを愚痴り始めた。男が、浮気をしているのだと。妹も、前の男とも別れていないと。妹は、いろいろ器用で女として優秀なのだが、恋愛事情にはいつまでも子供だというべきなのか(いや私はそれらの適切な語彙は持ち合わせていないのだが)、いつもうまくやれていないことに、母としては一家言ありそうだ。若い頃の母は、愚痴を言わなかったように思う(私も子供だったから気が付かなかっただけなのかもしれないが)。母はとても何事にも献身的な女性だった。尊敬している。父母を。しかし母はここに来て、娘にうまい「恋愛」を教えたがっているみたいに思える(私も教わりたいのだが)。しかしそれを適切に娘に指導できる機会を失っているのだろう。以前、不具の母と妹でそういう話が熱くなり、口達者な妹が容赦無く、猛烈に反論しているのを聞いたことがある。
妹の機敏さ、したたかさは、どこか我ら兄姉と遺伝子が異なるようだ。私がまだ非常に幼い頃、どころか幼稚園にも行ってない、確か私が1歳半ぐらいの頃、そんな年齢であるがはっきり覚えていることが幾つかある。その頃、此処とは違くて関東の一地方に住んでいたのだけど、誰かの車に乗っていて(父は車に乗れない)母が、妹は、ここの病院で生まれたのよ、と教えてくれたことをはっきり覚えている。私と兄弟はみな、京都なのに。そして詳しく時期を聞いていないが父はサラリーマンとして海外に出張中であったが、妹が生まれた。その頃の私もまだ、赤ちゃんと呼べる年齢な訳だが、どういうわけかいろいろ覚えている。とくに、母とその男の会話はいろいろ、はっきり覚えている。ある日もその男の車で、夕暮れ、その地域の山道を通過することがあり、途中、車を止めて林に囲まれた山中にて休憩していた時、私は車に乗っていたのだが、木の影にて男が母に近づき、「やめて、こんなところで。娘も見てるじゃない」と聞こえたことを覚えている。あれは一体なんなのか。それからも似たシチュエーションがあり、会話を覚えている。何かいやらしいことを話しているらしくて、娘の前でやめて、と母が言ったことなどがある。その男とはそれ以後は記憶がない。父が帰国したからかもしれない。その後も、母には他にも親しい男がいたのも覚えている。そちらは父も知る方で、でも父が知る以上に母はそちらともよく会っていて、田村正和似の着物の染匠で、私も可愛がられたし、ダンディで優しく、私も好きだった。また私と同年代の男の子もいて、親によく似ていて、私とも趣味や話しも合い、仲良くなった。だいぶ長く付き合いがあって(母が)、ある年、家の財政が苦しくなった時、母がたくさんの着物を売る決意をしたと言って私に、それらをお別れの前にと一枚一枚見せて説明してくれる機会があった。とても美しい着物が、こんなに我が家にあったことを、他に知っている人は誰もいるまい(笑)。そう、田村正和から母が、自分の稼ぎで買い集めていたのだ。おそらくそれ以後、その男とは会っていないようであるが、死期が迫る中、母は、女というものは昔を振り返り思い出すものなのだろうか。無論、父は母が仲良く以上の関係者がいたことを知らない、考えたこともなさそうだ。私の知る両親は総合的に考えて、お互いに、とても献身的であった。とても尊敬している。父母を。だが、私の見立てでは、母は培った恋愛ノウハウを、娘に伝授したがるだけでなく、自分の恋愛遍歴を語り継がせたがっているようにも思える。それが女の、人生の意義なのではないか、この無情な私ですら、これらのことからそうとすら覚える。そう言えば両方の祖母のそういう話も、母づてで聞いた。
これから先、なるべく帰れる時に母に会いに来ようと思う。私がそうしたい。母に会いたいから。本当にそう思う。そして、母の口から恋愛遍歴を聞いてあげなくてはならない。しかし、もう障害が強くなってきていて厳しそうだ。しかし、私はなにやら記憶力が良いので、結構覚えているので、では然るに、私が覚えているあの時期、あの場所で、あなたが、誰と会って、どんな会話をして、何をしていたかを、詳しく説明できるから、母が教えてくれなくても知ってますよと、言ってあげることもできる。…べきか。
そして、母が死ぬ前にしっかり、私はあなたの娘ですよ、あなたの愛は受け継いでますよ、と、言ってあげたい気持ちが、いま思うと、この胸の中に本当にあると思う。でも、それが正しいことなのか、本当に喜んでもらえることなのか、少し、確証が無い。それも含めた事項で、私にだって母に質問したいことが一つだけ、ある。
お母さん、それは愛ですか…?
11000文字
2022/01/18 Betalayertale
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