主従関係概論(1年後期・必修)
誰のため
縛って弄びたい。縛られて弄ばれたい。そう思うふたりが出会えば、需要と供給の一致する可能性が生じます。もちろん「遠くて会いに行けない」「おじさんはパス」「私より背が 20cm 以上高くないと」等、可能性の目を摘む要素も多々あるでしょう。しかしそれらを無事にクリアして実際に会うことになり、ホテルや自分の部屋でふたりきりに、そして(さくっと略)(略すなよ、おい)。
このときに得られる悦びと幸せ、まさにあなたの望んでいたものでしょう。自分はこんなことをされたかったんだ、こう扱ってほしかったんだ。まさに目の前に新たな世界が広がり、目からウロコの2~3枚も落ちようかという瞬間かもしれません。勇気を出して一歩を踏み出し、たくさん苦労してきた甲斐があった、というものですよね。
さて、あなたの感じたその悦びと幸せは、「誰のためのもの」ですか?
もちろんあなたのためのもの、ですよね。
それでいいんです。人間は自分が幸せになろうと思って生きてるんですから。あなたが弄ばれたい性癖を持ち、理解してくれるパートナーがあなたのために実行してくれる。逆にパートナーは弄びたい性癖を持ち、あなたが・・・・
あれ? あなたは「誰のために」弄ばれているんでしょうか?
そう、あなたのため、ですよね。
女性を弄びたい男性がそれを実現できたなら、それは男性の悦びです。あなたが自分のために縛られ弄ばれる。パートナーも自分のために縛り弄ぶ。つまり一方通行の関係なんですね。自分の幸せのために誰かを必要とする。自分が幸せになりたいという目的を実現するために、パートナーの存在を求める。それでお互いに心からの満足を得られるのであれば、めでたしめでたしで話は終わりです。
ところがこの関係に、大きな矛盾を感じる人もたくさんいます。
誰かに支配され弄ばれる行為とは、自分を自由にできない状態に自らを置き、大きな力(存在)に自分を委ねる行為です。自らを滅して誰かに仕える、とでもいえばよいでしょうか。その「自らを滅する」行為の目的が実は「自らを満足させる」ことだとすれば、矛盾が生じるのも当然かもしれません。
いわゆるプレイとしてのSM、たとえば男女の営みの気分転換にちょっと縛ったり目隠ししたり、自分の性癖を直接的に(誰かを使って)満たそうとする縛りや責めは、確かにSMといえます。そして、表面的には同じ行為をしていても、実は本人たちの意識は大きく異なるSMが存在します。それが「主従関係」です。
Mは肉体的にSに仕えるだけでなく、精神的にもSに支配される。ふたりの間のあらゆる行為は、Sが悦び幸せになるために行われる。つまりMは自分のためではなく、ひたすらSを幸せにするために存在する。そしてその存在や実際の行為が、Mにも幸せをもたらす。主従関係とは、あくまで本人たちの自由意志によるものではあっても、奴隷制度に極めて近い関係といえます。
相手の幸せこそ自分の幸せ
1973 年、スウェーデンのストックホルムで発生した銀行強盗事件で、逃走に失敗した犯人たちは客を人質にして、数日間にわたり立てこもりを続けました。このとき人質にされた客の数人が、信じられない行動をとりました。彼等は積極的に犯人に協力し、犯人の代わりに自発的に見張りを志願し、中には犯人に恋愛感情を抱く者まで現われたのです。
彼等の行動は、後に「ストックホルム・シンドローム」と呼ばれるようになりました。殺されるかもしれない状況の中で、彼等に敵対して自分の命を危険に晒すより、彼等に追従し協力することで自分を守る道を選ぶ。自分自身を欺いて、これこそベストの対応だと信じ込ませる。それが次第に犯人への好意、そして愛情へと変わっていく。この現象はその後も世界中の人質事件で発生し、特殊部隊は「突入のとき人質が犯人をかばうことがあるので注意しろ」と教えられているそうです。
主従関係が奴隷制度に近いといっても、奴隷制度には「仕える者の、仕えるが故の幸せ」という概念は希薄です。中には奴隷であることに無上の喜びを覚える人もいたかもしれませんが、それはおそらく上記のストックホルム・シンドロームに通じる自己欺瞞の結果や、幼い頃からの思想教育によるものでしょう。まともに考えれば、自由を奪われて隷属を強要される立場を、心から喜べる人はいないはずです。
それではなぜ、強制ではなく自らの意志で奴隷的な扱いを望み、命令に従い恥辱的な行為をされ、それで性的興奮を得て悦びと幸せを感じる、主従関係などというものがが存在しうるのでしょうか。支配されたい、服従したいと自ら願う女性は、男性にいいように利用されるだけの「都合のいい女」なのでしょうか。
男性にも女性にも、性欲という本能があります。サカリの時期のない(逆にいえば年中サカリっぱなしの)唯一の哺乳類といわれる人間。性欲を満足させるためにナンパや逆ナンパをし、恋人をドライブに誘い、配偶者に迫り、めったに着ない勝負下着を着け、風俗店で大枚をはたき、涙ぐましい努力をします。自らの性欲のための行為は、そしていわゆるプレイとしてのSMは、確実に存在します。
一方、主従関係の場合にはMがSを、つまり隷が主を悦ばせ幸せにしたい、という概念が新たに加わります。主を悦ばせるために懸命にご奉仕(なぜかこの世界ではフェラチオをこう呼ぶ)し、恥ずかしい姿に縛られ、首輪のリードを引かれて犬のように歩み、浣腸の苦しみやロウソクの熱さに耐えるのです。そしてもうひとつ忘れてはいけないのは、主の側にも隷を悦ばせ幸せにしたい概念が生まれるという点です。
もしも主が自分の性欲の満足だけを望むのなら、相手を愛する必要はないし、相手が肉体的・精神的に壊れても知ったことではない。あるいはSMクラブで金の対価としてプレイする、刹那的な関係でもかまいません。極端なことをいえば、使い捨てのできる相手で充分なはずです。要するに「食えればいい」ってやつですね。縛らせてくれるなら、自分の自由にできるなら誰でもいい。そのような発想が主従関係に結び付くことは、おそらく皆無といえるでしょう。
主にとって隷は、単なる遊び道具ではありません。性的なものも含めた支配行為によって、主が自ら悦び幸せになるだけでなく、隷もそれを自分の悦びだと心から思い、大きな幸せを得られる。それが主の幸せなのです。これは恋愛関係のカップルが結婚を決意するプロセスに、とてもよく似ています。お互いに自分が満足したいための関係から、相手を幸せにしたい関係への変化。性欲の関係から、人間全体としての関係への変化。
主は隷を悦ばせたくて、ある行為を命じる。隷は主を悦ばせたくて、その行為を実行する。それによって主は悦びと幸せを得る。それによって隷は悦びと幸せを得る。それによって主は・・・・。そう、主従関係にはメビウスの帯やエッシャーの「滝」のような無限ループにも似た、一方通行の関係では決して得られない「幸せ生産システム」が存在するのです。
もちろんこれはあくまで可能性の話で、実際にはそのループが途切れたり、悩みや不幸を生産するループになる場合もたくさんあります。主従関係はふたりの信頼の結果として築けるもの。主従の誓約書か何かを交わせば幸せになれるとか、そういう葵の印篭のような特効薬ではありません。そしていちど築けば安心というものでもありません。SMであれ何であれ、男と女に「絶対」はないのです。
キャッチボール
他人の話を聞かない奴、いますよね。おとなしく聞いていると思ったら、実は自分が勝手に話し始めるきっかけを待ってるだけだったり、どこまで議論が進んでも持論しか主張できなかったり。会話とか議論という概念そのものを理解できない、かわいそうな人たちです。どこでどう間違ったか、こういうのが重要なポストに就いてたりして、しかも自分の上司だったりすると、もう悲劇としかいえません。
結局、人間は自分がかわいい。自分を基準に物事を考えます。ボランティア活動やNGOにしても、その行為によって自分が満足感や幸せを得られるからこそ、損得感情を抜きにして他人への奉仕活動ができる。そうでなかったら「純粋な奉仕」なんか存在できるわけがありません。
よく問われるのが「主としての資質」です。出会い系サイトでも何でも、Sを自称する男性と出会ったとき、その人は主として信頼するに足る人なのか、主としての器を持つ人なのか。M女性にしてみれば、ともすれば縄や手錠で逃亡の権利を奪われ、自らの命さえも委ねようというのですから、そこが大きなポイントになるのは当然です。でも、ちょっと考えてみてください。女性は「隷としての資質」を、問われることはないのでしょうか。
自分が幸せになりたい。自分の性癖に基づく欲望を満足させたい。何度もいっているように、これは人間として当たり前の気持ち、本能に従う生き物の当然の欲求です。そしてそれを実現する方法(手段)は、まさに人の数だけあるといってもよいでしょう。即物的に目の前の課題だけを追い求める人もいれば、詰め将棋のように十手先百手先を考えてゴールを目指す人もいます。
たとえば女性を支配したい男性がネットかどこかで、支配されたい、服従したいと思う女性と出会ったとしましょう。出会いの時点ではお互いに支配も服従もしない、単にS(であろう)男とM(と思われる)女が知り合ったにすぎません。そこには命令に従う義務もなければ、従わせる権利もない。よくいえば相互理解のスタート、悪くいえば腹の探り合いの始まりです。
自分の性欲を満足させたいだけの、女を食えればいいという男性は、おそらく試合開始直後に退場を余儀なくされるか、または相手が試合放棄して逃げていくでしょう。自分の都合しか考えられない人に、心と体をすべて委ねようという馬鹿は(一部例外を除いて)いるはずもありません。
同じことがM女性の側にも求められるはずです。主は「支配できるなら誰でもいい」のではありません。この人を自分の理想の隷に育てたい、悦びと幸せをこの人と共有したい、と思える相手との出会いを求めているのです。女性は体を提供するのだから優遇されて当然とか、極端なことをいえば「やらせてやる」的な考え方とか、そういう発想は主従関係と無縁のものです。どちらか一方でも相手の姿を見失っていたら、心のキャッチボールはできません。
ここで確認しておきたいのは、別に主従関係が尊くて崇高なものだとか、自分の性欲の満足を目的としたSMが下賎だとか、そういう上下関係があるわけではないということです。豪速球投手と強打者の力と力のぶつかり合いも、変化球投手と巧打者の裏の裏の裏を読み合う神経戦も、どちらも勝負の醍醐味に違いはありません。本人たちが楽しみ満足できれば、それがいちばん大切で重要なのです。
男性も女性も、自分の求める相手は誰なのか、どのような条件を満たす人なのかを、しっかりと身極めることが必要だと思います。心のつながりを重視する主従指向の男性が、一方通行の幸せを欲する女性とカップルになっても、本当にお互いの求めるものには到達できないだろうし、もちろんその逆のこともいえます。合コンとお見合いパーティは主旨そのものが異なり、間違えて参加してもうまくいくはずはないのです。
滅私奉主
哺乳類の中には、集団で狩りをする者がいます。クジラは数頭でイワシの群れを囲い込み、ライオンのメスたちは1頭のシマウマやバイソンを集中攻撃して仕留めます。彼等は組織的な狩りを行うことで、単独での狩りよりも成功の可能性、つまり自らが生き延びる可能性を高めています。
徒党を組めば強くなれる。政党しかり、ヤクザしかり、暴走族しかり。ここでポイントになるのは、徒党を組む者はみんな「自分のために徒党を組んでいる」という点です。自分が直接的な利益を得るために、目的を同じくする者と手を結んで、その成果を山分けする。自分がおいしい思いをできるからこそ、時には利害の一致しない相手でも手を組んだりするのです。
ところが自分の利益も何も関係ない、自分以外の誰かのために貢献することだけが、自分の生きる意義であると信じて疑わぬ生き物もいます。女王蜂の体をきれいにするだけのために一生を終える蜂。自らの手足を絡め合って仲間の渡る橋となり、時には首や手足が千切れて絶命してしまう蟻。あるいは自らの崩壊によって毒素を発生させ、同胞の敵を撃退しようとするバクテリア。ピクミンもこれに含まれるかな?
自分の直接的な利益のためではなく、純粋に誰かのために自分を捧げる。自分の命は自分以外の誰かのためにあり、自分のためにあるのではない。そんな生き方を当たり前のこととして全うし、悔いのない一生を終える生き物が、世の中にはたくさんいます。
「万物の霊長」との表現もあるように、人間は食物連鎖ピラミッドの最高峰にいます。しかし「個は全のため、全は個のため」というシステマティックな組織論の観点から見ると、人間は個の欲求(自己満足)の呪縛から逃れきれない、蜂や蟻やバクテリアにも劣る未熟な生き物といえるのです。
さて、話をSMに戻しましょう。たとえば主が隷を縛る行為。縛られて嬉しいというのは、隷自身の幸せです。その点にだけ着目すれば、縛ってくれる相手は誰でもかまわないはずです。でも見ず知らずの人に縛られて悦べる人はさておき、「この人に縛ってもらえて嬉しい」という感情が生じるのであれば、それは相手の幸せと密接に結び付いた悦びです。相手の存在、つまり相手の悦びが、自分の悦びに確実に関与しています。
自分の幸せのために、縛られたり弄ばれたりする。これはとてもわかりやすい、ストレートで単純な発想です。それが悪いといってるわけではありません。ただ世の中には、他人の幸せのために縛られたり弄ばれたりして、それが巡り巡って自分の大きな幸せとして還元される、とても複雑で説明の難しい幸せも、確実に存在します。
この人を悦ばせたい。この人に悦んでいただきたい。そこには以前にも申し上げた、ボランティアやNGOに通じる「献身」という発想があります。誰かの幸せこそが自分の幸せ。誰かを幸せにさせて初めて自分が幸せになれる。他人という存在を媒介にして自分が幸せを得る、高度な幸せ獲得方法。自らを滅して主に尽くす、滅私奉公ならぬ滅私奉主です。
自分の人生、自分の命はこの人(自分以外の誰か)のためにのみ存在し、この人を悦ばせることが自分の悦び、この人の幸せが自分の幸せと感じる。自分にストレートに届く直接的な幸せだけでなく、巡り巡って届いた間接的な幸せをも満喫できる。それは「誰か私を幸せにさせて」という自己中心的で他力本願の姿勢から、「この人を幸せにすると自分に幸せが返ってくる」に発想を180度転換させた、まったく別次元の幸せの概念なのです。
心の蛇口(1)
ひとり暮らしの経験がある方ならおわかりでしょうが、安いアパートやマンションの浴室には、水とお湯の蛇口がついています。とりあえず水とお湯を適当に出してみて、もしも熱かったら水の蛇口を緩め、逆に温かったらお湯の蛇口を緩めて、あなたが自分で調節して適温に合わせてね、という仕組みです。でもなかなかうまくいかなくて、震え上がったり火傷しそうになったりするんですよね。
ちょっと高級な浴室だと、お湯の温度を設定できるバスユニットがあります。湯温を42度に設定しておけば、それ以上熱いお湯がきたら水を加え、温いお湯になったら水を減らして、自動的にお湯と冷水のバランスを常に42度にしてくれる便利な機械です。
自分は主のために存在する。主の悦びこそが自分の悦び、主の幸せこそが自分の幸せ。そういう価値観が存在することを、繰り返しお話ししてきました。常に主のことを考え、主の悦ぶことは何かを考える。主に呼ばれれば予定をすべてキャンセルしてでも時間を作り、主が悦ぶことなら何でもしたいと欲し、実際にそれを実現しようと努力する。「滅私奉主」とはそういうことです。
でも、ちょっと待ってください。あなたは学生か、OLか、あるいは主婦か、いずれにせよ社会生活を営んでいるはずですよね。世の中に主とあなたと、たったふたりしか存在しないわけでは、ありませんよね。それなのに「絶対の支配と服従」の関係を持つなんて、不可能だとは思いませんか? 学業や仕事に専念しなければいけない、同時に主のことしか考えてはいけない、それは矛盾していませんか?
そう、ここがまさにあなたの主(もしくは主となるであろう人)の腕の見せどころであり、主としての力量の問われるターニングポイントなんです。
たとえ夫婦や学生同士であっても、ふたりだけで過ごせるのは1日にほんの数時間。そうでない関係なら数日に1回、あるいは数ケ月に1回にすぎません。大部分のカップルは「ふたりだけではない時間」のほうが、はるかに長いのです。会える 1% より、会えない 99% を隷にどのように解釈させるか、どう過ごさせるのか。それが主の躾けの醍醐味、主の手腕の試金石です。
命じられて裸になり、首輪をつけられ、恥ずかしい姿を晒し、社会常識や一般概念の束縛から解放される。これはいうまでもなく「非日常」の状態です。学校や職場や自宅で常にこんな状態になっていたら、間違いなく社会生活が破綻してしまいます。
しかしその一方で、自分が主のためにのみ存在し、主にすべてを捧げることで初めて悦びと幸せを得られるという概念は、ふたりで会っているときだけそう考えていればいい、日常では社会生活のことだけ考えて主のことなど忘れてもいい、というレベルの話ではありません。もしもそれで済むのなら、それは単なる「契約の関係」です。お金でひとときの触れ合いを築く風俗や愛人、妾と同じになってしまいます(悪いといってるわけじゃないですよ)。
究極的ともいえる非日常の時間と、その何十倍・何百倍もの日常の時間。隷の心の中で両者のバランスをうまく取らせ、会えないときであっても隷としての幸せを感じさせ、隷が常に隷であり続けたいと思うように躾けて導くこと。それができる者こそが主たる者であり、隷に隷たる幸せを与える力を持つ者です。ふたりだけの時間でいくら幸せを与えられても、それ以外の時間に幸せを与えられない者は、本当の主とはいえないのです。
心の蛇口(2)
社会人としての生活を破綻させることなく、平穏な日々を送る。その一方で、自分が主の所有物であることを自覚し、自らを滅して主のためにすべてを尽くす。社会的な立場を確立させ(失うことなく)、かつ隷として社会常識の呪縛から解放される。まるで正反対の矛盾する生き方ですよね。
「SM概論」でもお話ししたように、世の中にはひとつの価値観(物差し)でしか物事を測れない人と、ふたつ以上の価値観で測れる人がいます。ギアが1速しかない人と、複数のギアをシフトできる人です。的確な表現かどうかはわかりませんが、ここでは価値観が1速しかない状態を「ニュートラル」、何速もある状態を「シフト」と呼ぶことにします。わかりづらいという方は、「ノーマル」と「ノーマル+アブノーマル」という表現に、置き換えて解釈していただいても結構です。
ギアをシフトして非日常の世界に浸る。あらゆる常識や通念から解放され、純粋に隷として主に尽くす。そこには羞恥とか貞操という概念も、自らの欲求を満たしたい願望もなく、ただひたすら主の悦びと幸せのための行為だけが存在する。それがシフトした世界です。
しかし社会生活を営む人間である以上、裸で近所を歩き回ったり、インターネットで本名と住所と電話番号と顔写真を公開したり、主を思いながら満員電車の中で自慰にふけるわけにはいきません。社会人として、常識人として守るべき、守らねばならぬ一線が存在します。社会常識という物差しでのみ生きる、ニュートラルの世界です。
何もかも忘れて主のことだけを思う、主の価値観が自分の価値観である、という熱い熱い熱湯のような発想。そして社会人としての責務を全うし、社会という集団の中で立派な一員でありたいと願う、極度に冷静な冷水のような発想。心の中にある熱湯と冷水の蛇口、ニュートラルとシフトの蛇口を、いかにコントロールするかが隷の使命であり、いかにコントロールさせるかが主の使命なのです。
学業や仕事や家事に専念し、男性に対しても節操と分別をもって接し、社会人として同姓からも尊敬される「凛とした女性」を育てることが、主の役目だと私は考えています。常日頃から欲情して誰にでも下着を脱ぐような、尻軽な女性を育てることではありません。単に節操のないだらしない女性、欲情しまくりの女性を育てるだけなら、はっきりいって馬鹿でもできます。馬鹿ではできないからこそ、主と隷の関係は真剣に考えるに値するのです。
心の蛇口(3)
熱湯と冷水、ニュートラルとシフト。隷の心の中にあるふたつの蛇口のコントロールを間違えると、火傷をして社会生活に破綻をきたしたり、逆に冷たすぎて主と隷の関係を壊してしまいます。隷は、どのように蛇口を扱えばよいのでしょうか。そして主は隷にどのように蛇口を扱わせればよいのでしょうか。
主と隷がふたりだけで会っているときは、ニュートラル(冷水)の蛇口が完全に閉められて、シフト(熱湯)だけが溢れ出る状態です。そうでなければ、つまり冷静な隷というものが存在したら、主と隷の関係など成立しません。ひたすら、ただひたすら主のことだけを思い、主のために尽くそうと思ってこそ隷は隷でいられ、主は主でありえるのです。
では、逆の状態を考えてみましょう。学生やOLや主婦である日常の隷が、シフトの蛇口を完全に閉めたらどうなるのか。主という存在を完全に忘れ去り、シフトの蛇口があることさえ忘れて、ニュートラルの蛇口を操作していたらどうなるのか。
自分は常に主の所有物であるという、隷としての存在意義。主の所有物であるが故に得られる、悦びと幸せ。その主への思いという蛇口を完全に閉めてしまうのは、自分の存在意義そのものを失わせることに他なりません。シフトの蛇口は、たとえわずかであれ常に開かれていないと、隷はもはや隷でなくなります。
私はこう考えます。隷の日常生活において、主は常にその存在を隷に意識させ、主に恥ずかしくないよう振る舞う力を与えられることが望ましい、と。
たとえば、つい我を忘れて感情的な言動に走りそうになったとき。あるいは弱気になって自分に不利益な結果を招きそうなとき。「こんな自分では主に申し訳ない、主に恥ずかしい」という気持ちが、少しでも前向きに歩ませる力や冷静さを取り戻す力、勇気を奮い立たせる力に結び付けば、たとえ直接の命令や指示がなくてもそれは「隷を躾けて育てること」です。単に隷としてではなく、その女性を人間として成長させることです。
主という存在。自分は主のものであるという立場。それを日常生活でも常に意識させる程度に、シフトの蛇口からちょろちょろと熱湯が流れ出す。かといって蛇口を緩めすぎると、仕事が手につかなかったり外出先で欲情したりして、社会生活に支障をきたします。隷の心の蛇口は、たとえ主といえど直接操作はできません。操作できるのは隷本人、ただひとりだけです。いかにうまく操作すべきかを習得するのが隷の仕事であり、いかにうまく操作させるかを躾けるのが主の仕事なのです。
隷は主を映す鏡
日常生活において、主は自分の存在を意識する程度に、隷のシフトの蛇口を開かせる。隷は日常においても主を意識し、主に恥ずかしくない言動を心掛ける。そしてふたりだけの、非日常の場においては、ニュートラルの蛇口は完全閉鎖、シフトの蛇口は全開。その操作のきっかけは主への挨拶だったり、首輪の金具を留めることだったり、あるいはホテルのドアを閉める音かもしれません。
ふたりだけの時間・空間において、自分たちが悦ぶため、自分たちが幸せになるために、誰が何をやっても本人たちの自由ですよね。誰かに迷惑かけるわけでもなし、誰かが嫌な思いをするでもなし。確かにそうなんですよ。でもね・・・・
あくまでも個人的な見解ですけど、「ふたりの間で何をやってもいい」と「ふたりが幸せなら何をやってもいい」は、明らかに違うと思うんです。ある女性が理想の主と出会い、自分が隷となり、ふたりきりの時間・空間で天にも舞うような悦びと幸せを掴む。それは確かにすてきなことです。でも、そんな関係を持ったために仕事が疎かになったり、夫婦生活が破綻したりするくらいなら、最初から主従関係なんか持つべきではありません。
以前にもお話ししたように、私は自分の隷を「同姓も尊敬する、凛とした女性」に育てることに、最大限の努力をしています。しっかりした社会生活もできない女性と主従関係を持ちたくはないし、隷を飼うことにうつつをぬかして社会生活を疎かにする主になりたくもありません。主と隷の関係を、単なる現実逃避にしたくないのです。私にとっても、パートナーにとっても。
主と出会い、その隷になることによって、もしもその女性が社会生活に支障を生じたら、それは主の躾けの至らなさによるものです。日常においてその女性が、主の存在を前向きの力にできず、立ち止まったり後戻りする力になってしまったら、それは主の力量不足に起因するものです。
単に女性を思うがままに、縛ったり揉んだり開いたり打ったり入れたり出したり(何を?)して、自分の性欲や征服欲を満たしたい。これは大部分の男性の求めるものです。しかしそこには「行為に伴う義務と責任」という意識が欠落しています。相手の女性は奴隷ではなく、隷なのです。
主は非日常の世界で、挨拶や行為のテクニックだけ教えればよいのではなく、膨大な日常をも含めた女性のすべてを受け止め、背負い、躾けて育てて、初めて女性を隷として支配できるのです。金品の授受を伴う風俗の男女関係は、その責任を金品によってチャラにする代替行為といえるでしょう。
義務なきところに権利なし。隷を自由気ままに弄ぶ権利は、主の義務を果たさずには得られません。そしてその義務とは、決して非日常の時間だけ生じるのではなく、ふたりだけになれない膨大な日常にこそ、果たされねばならないのです。
ただし、権利と同時に義務を負うのは、主だけではありません。隷も隷としての悦びと幸せ、つまり隷としての権利を得るには、まず先に隷の義務を果たす必要があります。その義務とは「主に恥ずかしくない生き方をする」ことです。
「親が笑われる」ということばがあります。誰かがみっともないことをしたら、それは親の躾けが不充分だったからであり、その程度の躾けしかできない親が笑われる、という意味です。同義語で「子は親を映す鏡」「あの親にしてこの子あり」ともいいます。私はこれらのことばが、そのまま主従関係にもあてはまると思うのです。
隷が隷としてのみならず、人間として誰かに笑われるのは、主として最大の屈辱です。その程度の隷しか育てられない、お前は主として失格だと烙印を押されるようなものです。逆に隷が日常生活で誉められたり評価されることは、主にとても大きな幸せをもたらします。まるで自分が誉められたかのように喜び、この次は思いっきり強く抱っこしてなでなでなでなでしてやろう、と思う瞬間です。
隷が、主に恥ずかしくない日常を送りたいと思い、努力する。主が、隷に恥ずかしくない日常を送りたいと思い、努力する。その両者の思いが重なって初めて、ふたりの非日常の燃え上がりが悦びと幸せにつながる。たとえ行為自体は隷から主への一方通行に見えても、その背景にはお互いを尊重し、尊敬し、相手のために自分のできることを懸命にしようとする気持ちがある。それが主従関係を成立させるキーポイントではないか、と思います。
まとめ
誰かを飼う。誰かに飼われる。誰かを支配する。誰かに服従する。現代の日本の社会においては、自ら望まぬ限り決して遭遇することのない、奇異としか受け取られない人間関係。しかしそこには、敢えてその道を選んだ者だけが得られる満足感、悦び、そして幸せが確実に存在します。
誰かに服従することは、その相手の性欲や征服欲を満足させるだけの、相手にとって「都合のいい女」になることでしょうか。そうでは、ないですよね。
誰かに服従することは、あなた自身のため、あなただけのための行為であり、あなたさえ満足できればよいのでしょうか。そうでは、ないですよね。
そして、あなたは忠実な隷として、主の命令に従い、主に身を任せて弄ばれ、主のために唇や舌を使う、それだけでよいのでしょうか。もちろん、そうではないですよね。
「人間の幸せとは何か」「他人の存在によって自分が幸せになるとはどういうことか」という、複雑で難解な人類の命題を、あまり深く追及すると迷宮に捕われてしまいます。他人はともかく自分は幸せか、自分の物差しで幸せに該当するのか、それを考えるのが正しい幸せ探しでしょう。
人間ひとり支配するのは、筆舌に尽くしがたいほど大変なことです。男性の中には妻子がいて、子供の躾けに人生の労力の多くを注いでいる人もいるでしょう。その上さらに血のつながっていない「赤の他人」の女性を、自分の隷として躾けて育てようというのは、はっきりいってめちゃくちゃ大変です。悩み事のフォローに苦労したり、我が侭を諌めたり、時にはヘコみそうになるのを励ましたり。相手が子供でないだけに、逆に躾けの困難さも半端じゃありません。
でもそれが嫌なら、最初からしなければいい。
苦労したいから苦労する。そこに苦労してこそ得られる悦びと幸せがあるから、人間は自ら苦労を買って出て、その苦労を乗り越えたいと思える。甘い果実が成るからこそ、苦労して丹精こめて木々を育てたいと思える。もちろん果実が先ではなく、苦労のほうが先に訪れる。考え、悩み、苦しみ、なぜ自分は苦しむ道を選んだかを自問自答する日々を積み重ねる。
隷にも同じことがいえます。手間はかかる、時間はかかる。主の命令に従って手間暇を費やし、仕事やプライベートの都合を調整し、痛みや苦しみをも自ら享受する。それより何より、自分の人生を自分で決められる生き方と決別しなければならない。人生を主に託し、主の命じるままに生きることこそ、自分の本当の幸せだと信じられる生き方を求められる。
そこで引き返すのも、ひとつの選択です。こんな思いをするくらいならやめておけばよかった、こんな道を選ばなければよかった、と考えるのも選択肢のひとつです。そう、人間は自分が幸せになるために、生きているんです。その幸せを掴む手段は人の数だけあり、主従関係を築くことで必ず幸せになれる、というわけではありません。選ばないことも立派な選択です。
それでもなお、この道を歩もうという選択肢もあります。この道を選んだ者だけが到達できる、人を支配し人に服従する関係だけが醸し出す、悦びと幸せに触れたいと願う選択肢もあります。支配し、服従する。導き、従う。それはあくまでも人生の幸せを見つける選択肢のひとつにすぎません。選ぶのも、そして選んだ結果を背負うのも、他ならぬあなた自身なのです。
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