
キッシュが冷たくなるまえに 第78話 パスティス
「プロパガンダって言葉は仰々しくて、ちょっと言いすぎかもしれないから訂正するけどさ、飲む側も提供すぐ側も・・・・」
バックバーで探し物をしていた吾郎君は、言葉を濁して手を止めた。カウンターの僕等の方に振り向くと苦々しい作り笑いをして、グラスに水を満たして飲み干した。
「吾郎君ごめんね、僕の業界の愚痴につき合わせたせいで、ネガティブなこと言わせたみたいになって・・・」
僕は吾郎君の顔色をうかがってみたが、苦虫をかみつぶしたような表情はすでに消えてしまって、意外にもすっきりとした顔をしていた。さすが飲食業でカウンターで人前に出続けている人は感情のコントロールに優れているなと感心した。
「翔太君は今、飲食業の手伝いをしていてさ、小日向が来るまで僕と同じ悩みというか、この業界のいびつな部分の話をしてたんだわ。その話題の名残りでどうもネガティブな話になっちゃてる。小日向すまん、僕等を許してくれ」
「そうなんだ、こんな話をできる相手が吾郎君くらいしかいなくてさ」
僕は小日向君に合掌をして詫びを入れると、吾郎君は苦笑いで僕等を見つめている。氷が溶けて水っぽくなったソルティードッグをを飲み干すと、吾郎君はすかさず空のグラスを下げて、メニューをカウンターの上に置いた。
「なるほどね、で、翔太は今何やってるの?飲食業って?」
「ほんとは旅行代理店に勤めてるんだけど、ちょっと飲食業で手伝いもやってる。メニュー開発というか技術指導というか・・・」
「なんて店?」
「ミカエルってカフェってわかるかな?ここからちょっと下ったところのケヤキの街路樹の通りにある洋風の建物」
「わかるよ、あの女性客が多そうな店ね、さすがに男一人で入るにはかなり勇気がいる店だなぁ・・・」
「そこのオーナーのミカさんって人に、独身男性の一人客が、ふらっと来店して、ご飯を食べて、お酒を飲んで帰っていくようなメニューを作ってくれないかって相談されてさ、四苦八苦しながらやってるんだよ」
僕はそう言って、カウンターに置かれた黒い革製のメニューを開いた。ウイスキーのページをめくると、モルトウイスキーとグレンウイスキーを混ぜ合わせたブレンデッドと呼ばれるいわゆる一般的なウイスキーと、シングルモルトと呼ばれる単一蒸留所で蒸留されたモルトウイスキーのみを使ったウイスキーに分けられていて、それをさらに産地で分けて表記されている。僕の好みは、柔らかく、洗練された飲みやすいシングルモルトで、それはスぺイサイド地方に多いのだが、スぺイサイドのシングルモルトだけでも20種類くらいはありそうで迷う。そのなかから見聞きしたことのあるいくつかの銘柄が目に飛び込んできたが、小日向君の前でカッコつけたいという煩悩が湧き出てきて、おちおち考えて決めることができない。
「ちなみに、翔太君は専門学校を出たあとに、ワーホリでパリのビストロで一年間修行経験ありなのさ。で、元パリジャンの翔太君、次は何を飲む?ここはパリジャンらしくパスティスでも飲んでみるかい?」
小日向君が目を丸くして僕を見つめている。吾郎君、また余計な事を言わないでくれよ、パリジャンっていったいなんだよ。こちらは田んぼや畑に囲まれたのどかな町内で生まれ育った田舎者だぜ。個人的にはワーホリは黒歴史なんだからさ・・・
「なんだよお前、海外に出てたのか、全然知らなかったわ。ところでパスティスって何?聞いたことない酒だな。パリジャンってそのパスティスをよく飲んでるのか?」
吾郎君はバックバーの数本あるパスティスの中から、ペルーノというメーカーのビンをさっと取り出して僕の目の前にドンと置いた。そしてニヤっと思わせぶりな笑顔を浮かべて僕を見つめると、ボトルに視線を移して、アゴをしゃくってこれを飲めとアピールした。
「飲んでると言えば飲んでるし、飲んでないと言えば飲んでない。もともと南仏のハーブのリキュールなので、南仏の奴らのほうが飲んでるんじゃないかな。ちなみに、パスティスは日本人の味覚にもっとも合わない飲み物と思っていて、僕は積極的に飲みたいとは思わない」
「ほんと?ほんとは飲みたいんじゃないの?好きなんだけど、パリ時代に思い出したくない過去でもあって封印でもしてるとか?」
バーテンダーが人物観察に長けているというのは本当なのだろう。吾郎君は、当たってはいないがハズレでもない微妙なところをついてくるのが嫌らしい。
「まさか、僕も小日向君と同じくグレンフィデックをストレートで、あとお水をください」
僕は、かぎりなく無表情で注文をして、一息をついた。
「かしこまりました。小日向はどうする?フィデックが残り少ないけど、もう次の注文をしとくか?」
「それじゃ、中二病をこじらせてる身としては、らしい物を注文しようかな?それじゃ、そのパスティスとやらをくださいな 「わかったよ、水割りでいいね?」
「いいねも何も、パスティスそのものがまったくわからないので、吾郎にお任せするよ」
「僕のは後でいいから、パスティスを先に出してあげて。驚く表情が見たいから」
僕と吾郎君はお互いに視線を合わせると、ニンマリとほくそ笑んだ。小日向君はその僕等の表情を見て、残りのウイスキーを飲み干し、グラスをカウンターに置くと、空になったグラスの中で、氷がカランと音をたてた。