【小説】キッシュが冷たくなるまえに(第13話)
とりあえず初回納品分のキッシュ・ロレーヌは完成した。正確にはキッシュ・ロレーヌには玉ねぎは入っていないが、そんなことはどうでもいい。明日に納入する分は、姉ではなく父が今作っている。作るのが相当面白かったみたいで、「美穂じゃなく俺にやらせろ」と姉から仕事を奪ってしまい、本日2回目の生地のから焼きが終わったところだ。
「父さん、あとお願い。アパレイユは残り分で十分足りるし。チーズも足りなかったら切って使ってね」
二度目の重し取りに苦戦している人也は、こっちに振り向きもせず作業に集中している。その姿を横目に僕と姉は、初回納品分を持ってミカさんの店に向かう。まだ頭は痛いが、熱はさほどでもないし、マスクは外さずちょこっと挨拶だけして、さっと帰ろうと思う。幸い姉が運転してくれるので、気が楽だ。
父は家にあったタルト型を使って焼いている。キッシュは借りたタルト型を入れたまま、適当な大きさの段ボール箱に入れて運ぶことにした。金属性の型の中に入っているほうが、車で運んでいる際に、崩れたりしないだろうという配慮である。箱と型の隙間は丸めた古新聞で埋めて、中で暴れないようにしてある。
「それじゃ、行ってきます」
「うぁ~い」
と人也からは、低くドスの効いた返事が帰ってきた。集中を邪魔された不快感たっぷりで、本気で作っているのがよくわかった。感じは悪いが、有難い。
玄関のドアを開くと、姉が僕の車を玄関前に移動させていて、なんで僕の車で行くのかいまいちよくわからないが、助手席のドアを片手で開いて腰を下ろした。キッシュの入ったダンボール箱は膝の上に置き、手をそえて落とさないようにしよう。直径18センチくらいの食べ物だ、特に重いものではない。
「久しぶりにプジョーに乗ってみたかったんだ。相変わらず内装のプラスチックが安っぽいね。だけどシートの座り心地はすごくいい。それじゃ行くよ」
美穂は左足でクラッチを踏んで、ギアを1速に入れる。右足でやさしくアクセルを踏むと、ゆっくりと左足を上げて、エンジンの力がクラッチに伝わる瞬間を探る。伝わった瞬間に左足の力を抜いて、今度は右足のアクセルを踏む力を微妙に強めた。車はギクシャクすることなくスムーズに前に進み始めて、玄関まえの坂道を滑るように進んでいく。
「姉ちゃん、相変わらずマニュアルの運転上手いね。他の人に貸すと、だいたいスタートでギクシャクするけどね」
「たしかにこの車は、どこで駆動がかかったか判りずらいよ。スタートの半クラでちょっと神経使うけど、10分くらい乗ったら、だいたい感覚が身体に入ってくる」
タコメーターの針が3000回転くらいを指して、美穂は2速にシフトした。
「やっぱりマニュアルは楽しいね。この車のシフトのフィーリングは良くないし、私には1速が遠くて入れずらいけど、そんなことあまり気にならなくなるのはなぜ?」
車は棚田の曲がりくねった道を、滑らかに下っている。
「この柔らかい乗り心地と、カーブを曲がるときボディーがゆっくりと外側に傾いて、曲がり終えたらフワンと柔らかく姿勢が戻る感じが独特ね。曲がり終わったら、ブルンと車高が伸びて、背高ノッポの車になった感じがするわ」
確かに、想像以上に車高が高い車に乗ってると思う瞬間はある。時々、姉の感性の豊かさにビックリさせられる。
「アクセルとブレーキの位置が右によりすぎていて、どこにブレーキがあるのかわからない」
「そして、ブレーキとアクセルの隙間が狭い。さらにアクセルがかなり低い位置にあってヒール アンド トゥーがめっちゃやりづらい」
美穂はブレーキを踏んだ右足を内側に捻り、そのままカカトに近い部分でアクセルを踏んで、エンジンの回転数を上げる。と同時に左足でクラッチを踏むと、その瞬間にシフトを3速から2速に素早く落として、クラッチをつなぐ。アクセルをあおったままクラッチをつなぐと、急ブレーキをかけたようなショックが車体に伝わるはずが、なんのショックも感じさせない。プジョーはネコ科の動物のように柔らかいステップを踏んでコーナーを駆け抜けていく。
右足、左足、左手が見事にシンクロしないとこんなにスムーズには動かせない。
「この車、面倒くさいところがたくさんあるんだけど、その面倒くさいところが何故か楽しい」
美穂はそう言ってハンドルを左に切りながら視線をコーナーの奥に見定める。彼女の左側の表情が見えると、かすかに笑みを浮かべていた。
「何故か楽しいんだよね。その何故かがわからないんだよ」
何か言いたいと思った僕は、答えにならない答えを紡ぎ出すのが精一杯だった。
「キッシュ作るのも面倒くさいけど楽しかった。何故だかわからないけど」
美穂も同じようなことを言った。やっぱり僕達は姉弟だ。答えにならない答えしか導きだせない。
車はあっという間に坂を下りきって、海岸沿いの国道に着いた。美穂は無駄にアクセルをあおってエンジン音を鳴らす。それがライオンの遠吠えのように聞こえたのは僕だけだったのだろうか?