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キッシュが冷たくなるまえに 第69話 コーヒーが冷めないうちに
寒さで目が覚めた。自室のベッドではなく、リビングのソファーの上で身体を丸めてタオルケットを抱きしめているのに気がついた。昨夜はたしか試作で作った豚バラのリエットとロゼワインのマッチングを試していたはずだ。目やにで開きづらい瞼をこすって、そっと目を開くと、ソファーの前にあるセンターテーブルには、袋が開けられたポテチが置いてあるだけで、飲みさしのグラスやリエットが入っているココットは既に片付けられていた。どうやらそのまま寝落ちしたあとで父さんと美穂がテーブルを片付けていて、シングルソファーに座っていた僕を長いソファーに移動させてタオルケットをかけてくれてようだ。横になった姿勢からむっくりと起きてソファーに座り直し、顔全体を手のひらでこするとべったりと皮脂がまとわりついて気持ち悪い。初秋だが、未だに毛穴が開きまっくている。脇と背中もしっとりと汗をかいていて、なんだかむず痒い、一刻も早くシャワーを浴びたい気分だ。壁かけ時計に目をやると、午前6時前。スマホのアラームが鳴るまで30分以上ある。今日は土曜日、ミカエルにキッシュを2ホール焼いて午前中までに持っていかないといけない。生地は木曜に作ってラップして冷蔵庫にしまってある。材料はちゃんと買ってある。目覚めてない脳内で今日の午前中の段取りを考えていると、「ギュルルル」とお腹が鳴った。目の前のポテチの袋を手に取って、ちょっとしけったポテチを一つかみして頬張り「ガリガリ」とかじって、皮脂とトランス酸の飽和した油が混じった右手をタオルケットで拭いて「よっこらしょ」と立ち上がった。
洗面所に行き石鹸で顔を洗って歯磨きして、キッチンに行くとシンクの桶の中には昨夜のグラスが突っ込んであった。僕はあくびをかみ殺しながら水道の蛇口を開いて手を洗う。手にかかる冷たい水が気持ちいい。両手を流水にさらすと眠気まで流されていくようで、急激に目が覚めてきた。昨夜の汚れが残った3つのグラスとロゼのワインボトルを洗って干すと眠気はほとんど消えていた。
ケトルに水を入れて、ガスコンロに火をつける。このケトルは長年使い込まれていて、ところどころホーローが欠けておりいい味を出している。お気に入りの調理道具だ。冷凍庫にあるコーヒー豆用のキャニスターをつかんで蓋を開く。キャニスターの中にはコーヒー豆は三分の一もなくて、そろそろ誰か買い出しに出かけて買ってきてくれないかなと思いつつ、グラインダーを戸棚から引っ張り出して1人分のコーヒー豆を挽き始めた。ガリガリとコーヒー豆を挽く乾いた音が週末の早朝のキッチンに響いている。手のひらにコーヒー豆の硬さ感じながら徐々にその抵抗が減っていき、なにか「空回った」手答えに変わったら大体コーヒー豆は砕かれて粉末に変わっている。ペーパーフィルターとドリッパーを準備し、コーヒー豆を入れ終わると、ケトルの蓋が蒸気で踊り始めて、注ぎ口からは白い湯気が上がってきた。我ながら見事なタイミングと一人悦に入って、ケトルのお湯をドリッパーに注ぎ込む。粉状のコーヒー豆全体がぬれる程度の少量の熱湯を注いでしばらく蒸らすと、早朝のキッチンはもうコーヒーの香りで満たされてきた。
だいたい30秒前後蒸らせばいいとされているが、正直蒸らしたものと蒸らさなかったものの違いなんて正直わからない。多分ほんとに微妙な違いでしかないことを大げさに言っているだけだとは思ってるが、美味しく飲むための単なる儀式程度だと思ってやってはいる。30秒待って熱湯をゆっくりと回しかける。残念ながらドラッグストアで買ったU社の一番ベーシックなコーヒー豆は、コーヒー豆の焙煎をしている店の新鮮な煎りたてのコーヒー豆のようにお湯を吸うと、ゆっくりと膨れ上がって綺麗な山のように隆起したりはしない。ドリッパーの中の膨れ上がらない湿ったコーヒー豆をみると時折残念な気持ちになったりもするが、値段を考えると十分すぎるくらいのクオリティーはあると思う。あとは作り手がなんとか工夫して美味しくするだけで、それがさほど裕福じゃない世代に生まれた者達の醍醐味だ。
だいたいマグカップの3分の1くらいコーヒーが満たされたなら、ドリッパーを外して、熱湯を直接マグカップに注ぎ込んで作業はつつがなく終了した。コーヒー豆に最後までお湯を注ぐと雑味が強く出すぎるので、最初の3分の一の分量だけでいいとの情報を聞いてやってみたら、確かに雑味は少なくなり飲みやすくなったのでこのやり方を支持している。
出来立てのコーヒーを啜りながらトーストをトースターに突っ込んで、バターとイチゴジャムを冷蔵庫から取り出す。あとベーコンエッグも作ろうか?時間を気にせず一人ゆっくりとコーヒーを飲みながら一人語りで費やす時間が楽しい。もうしばらくするとキッシュ作りが始まるので、それまではのんびりしていよう。時計の針は6時を越えたばかり、窓の外でようやく陽の光が上ってきて、遠くでカモメの鳴く声が聞こえた。