【第52話】キッシュが冷たくなるまえに
「試作はうまくいってる?どのくらい進んだの?」
ミカさんが厨房に入ってきて、作業台をキョロキョロと見渡した。
「もう終わっちゃいました。ココットに入れて冷蔵庫の中です。冷えて固まるまで待って明日試食をしようって翔太さんと話をしていたところです」
フードプロセッサーのガラス製の容器を洗いながらはるかさんは答えた。
「もうできたの?あっという間じゃないの。こんなに早く出来るなんて意外だわ。もっと時間がかかる物じゃないの?」
「普通ならオーブンで湯煎にするんですが、もう茹でて火か入ってるからその手間がないので、あっという間に終わっちゃいましたね。明日試食して味の方向性と、裏ごししてもっと滑らかな状態にするかどうか決めたいんですがいいですか?」
僕はミカさんにそう言ってはるかさんのほうを見ると、はるかさんは小さく頷いた。
「もちろんいいわよ、凄い楽しみね。手ごたえはあるの?」
「もちろん手ごたえはあると思いますよ。作った本人に聞いてください」
僕はそう答えてはるかさんに目くばせをした。
洗った容器をタオルで拭き終えたばかりのはるかさんは、ミカさんにサムアップをして「もちろん手ごたえはあります。自信作と言っても過言じゃないでしょう」と力強く言い放ってニヤリと笑った。
「それと、明日豚バラでリエットを作りたいんですがいいですか?リエットって豚バラ肉と玉ねぎ、ニンニクで炒めてハーブで煮込んだものをほぐしてペースト状にしたもので、レバーペーストと一緒でバゲットの上に乗っけて食べる前菜なんですけど、作ったら二週間くらいは保存が出来るので、作り置きできる前菜なんですよ」
「もちろんO.Kよ。でも私達でも作れる?」
「意外に簡単で、一回作ったらすぐ覚えます。しかも圧力鍋を使って時短で仕上げるので、調理時間も短縮できます。実際に家でよく作ってるので自信があります。まかせてください」
僕は胸を張ってミカさんにそういうと、ミカさんは「わかったわ、じゃぁ明日お願いね、楽しみがまた増えたわ」と笑って厨房を出て行った。
「なにか一気に動きだしましたね。メニューが一気に二つも増えそうでビックリですよ。明日も私が作ればいいんですか?」
「うん、僕が作ってもいいんだけどね。でも心配しなくていいよ、そんなに難しい料理じゃないし、僕が横について指導するからさ」
我ながら柄にもない事を言ってるなと思った。
自分で言った言葉に照れて笑顔を作ったけど、頬が引きつってピクピクしているのがわかる。自分の笑顔はどういう風に見られているのだろうか?
「食材のほうは準備しておきますね。それと・・・」
はるかさんは何かを言おうとして言葉に詰まってしまった。何を言いたいのか聞きたくて一歩二歩と彼女に近づくと、彼女は緊張した面持ちで下を向いてしまった。数秒して顔を上げると、はるかさんは髪をかき上げ、細い髪がさらさらとスローモーションのようにはるかさんの額を流れ落ちていく。ショートカットの髪先が頬のあたり止まると、はるかさんは瞳を開いて僕の目を見つめた。目と目が合った瞬間僕は思わず生唾をのんで、その音がキッチンに大きく響いたような気がした。
「はるかちゃん、大至急コーヒーを二つ。三番テーブルね」
カウンターからミカさんが呼んでいる声にはっとしたはるかさんは、速足で僕の横をすり抜けてカウンターに戻っていった。
厨房に僕の鼓動がこだまのように響いている。僕はコップに水を入れ、一気に飲み干して大きく息をついた。脱いだエプロンがそのままなので、きれいに畳んで、もうちょとしたらカウンターに戻ろうと自分に言い聞かせてカウンターを覗くと、はるかさんとミカさんがコーヒーの準備をしている。後ろ姿を眺めながらそっとカウンター横を通って自分の座席に座った。
「翔太君疲れた?仕事が終わってきてくれたんだもんね。今日はありがとうね。さすが経験者は違うわと思わされたわよ。もう二つも新しいメニューのメドが立ったんだもの」
ミカさんはカウンターの空のコーヒーカップを下げてくれて、「玄米茶をいれるからちょっと待っててね」と言って急須の準備をしている。
「いやぁ、こちらこそですよ。久々にプロの厨房に入って身が引き締まった気がしました。本当はガンガン自分が先頭を切って作っちゃおうと思っていたのですが、やっぱりミカさんとはるかさんをリスペクトして、裏方というか作ってもらい、それをバックアップするのがいいかなと思って、路線を変更しました。でもそれでよかったと思います」
ミカさんは黙って僕の話を聞いていた。「はい、どうぞ」とミカさんからカウンター越しに市松模様の湯呑みを手渡された。手に取るとほんのり温かさが器を通して手に伝わる。コーヒーとはまた違う玄米の香ばしく優しい香りが湯吞みから立ち上がってほっとする。
「思い切って我がままにやってもよかったのよ。でも一歩ひくところが翔太君らしいわね」
ミカさんがそう言って自分のために入れたお茶をすすって、ふうっと息をはいた。僕もミカさんにならってほんのり温かいお茶をすすって、右の壁に飾ってあるサロメの押絵を見つめた。首を切られた預言者ヨカナーン。その首を持って口づけをしようとしているサロメ。その下には一本のユリが咲いているのに気付いた。なぜだか僕はそのユリから目が離せなくなってしまい、吸い込まれるようにユリを凝視して大きく息を吐いた。