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キッシュが冷たくなるまえに 第80話 粋ってなに?

  「パスティスを初めて飲んで、美味しいって言った人間を初めて見た気がする」
 僕はそう言って、吾郎君と顔を見合わせて二人で大きくうなずいた。小日向君は合点がいかないなぁといった表情で僕等の表情を見ているが、僕等は気にせずに話を続けた。
 「一癖ある飲み物って、最初はなんだかなぁと思って飲んでいくうちに、だんだん慣れて美味しく感じるパターンがほとんどなんだと思うけど、そんなのすっ飛ばす奴があらわれるとはビックリしたよ。しかもそれが小日向とは・・・」
 「確かに飲みなれない味なのは確かだけどさ、そんなに飲みづらいものかね、これが。苦いわけでもないし、辛いわけでもない。酸っぱくて思わず顔をしかめるような物でもない。どちらかというと甘くて飲みやすいよ」
 小日向君はぶ然とした表情をしながらそう言って、手に取ったグラスのなかの、薄い黄色がまじった白濁したリキュールを眺めた。
 「君は前世にマルセイユかどこか南仏のあたりで生まれたんだと思うよ」
 そう吾郎君に言われた小日向君は、まんざらでもないのをごまかすために強ばった表情をしたが、それも長くは続かずすぐ照れ笑いでごまかした。
 「翔太、食前酒にパスティスを頼んだら、フレンチレストランで一目を置かれるって言ったけど、それホント?」
 「ほんとヨコシマな質問だな、確かにそういう店もたまにはある。メニューには乗ってはいるけど、誰も注文しないから、注文すると興味を持たれて話に花が咲くこともある。でもウエイターってだいたい渡仏した経験がないから、パスティスなんて言われても?ってことも多いかな。」
 吾郎君は僕が話終わるタイミングを見計らって、グレンフィデックの入った小さなショットグラスを僕の前にそっと置いた。
 「小日向君、もし頼むとするなら、レストランじゃなくこじんまりとしたカウンターのあるビストロとかで頼んでみてね」
 そう言ってグラスのフィデックを少しすする。この淡い琥珀色の液体はウイスキー独特のピートの効いたスモーキーな香りを抑えていて、フルーティーな香りと、柔らかい口当たりで非常に飲みやすい。わかりやすい強烈な個性を声高らかにを主張したりする訳でもなく、かといって存在をまったく消している訳でもない。絶妙な塩梅で、なにかちょっと足りないなと思ってしまうところが、飲み疲れしない理由なのかもしれない。

 「今は食前酒=シャンパンやスパークリングワインの刷り込みが半端ないからね。今のお客様はそれしか頭の中にないって感じかな。バーテンダーの立場から言わせてもらうと、食前酒のカクテルだってたくさんあるんだけどね。さっき翔太君が飲んだマティーニも食前酒だよ。親父がカウンターに入っていた頃には、開店直後にバーにふらっと来てマティーニやギムレットを飲んでから食事に行ったり、この裏の割烹に行ったりしたお客さんもいたらしいんだけど、今じゃそんな粋な人は皆無だなぁ・・・」
 吾郎君はそう言うと、どこか遠くを見つめて黄昏たフリをして、突っ込みを待っていたのに何も起こらなかったせいか、そのうちに諦めてオーディオ機器をいじりはじめた。しばらくするとスピーカーからの音がロバート・グラスパーのクリアでモダンなデジタルの香りがするJazzから、ノイズ混じりのいかにもアナログなJazz音が流れ出す。ズンチャ、ズンチャとアコースティック」ギターがレゲエをもっと速くしたようなリズムを刻みはじめると、ウキウキした表情で吾郎君は上半身をそのリズムに乗って動かし始めた。
 「小日向のパスティスに合わせて音楽を変えてみた。どうジャンゴ・ラインハルト、最高でしょ?」
 吾郎君は僕等にサムアップをして、ニコッと満面の笑みを浮かべた。細かく刻んだギターのリズムに、ギターのジャンゴラインハルトとバイオリンのステファングラッペリが乗っかり、まるでデュエットを唄うように演奏を奏でている。
 「パスティスに合わせてという意味が俺にはよくわからんが、Jazzなのに妙に陽気だな。ダンスミュージックみたい」
 確かにダンスミュージックだな。ジャンゴ・ラインハルトは戦前から戦後くらいまでに活躍した人だったはず。そのころのJazzといえばビッグバンドで踊るための音楽だ。小日向君は何気に核心をついてくる。          
 「家の父さんが大好きでさ、夕飯を作りながら聞いてるよ。もちろん吾郎君のようにノリノリでね」
 僕はそう言いながら、脳裏にボーダー柄の長袖のロンT を着た父さんがフライパンを揺すっている光景が浮かんだ。ちょうど今頃は、もう晩御飯を作り終えて、姉の美穂といいちこのソーダ割でも飲みながら夕食を食べているに違いない。
 「君の父さんはこんなジプシージャズ聞きながら料理をしてるの?ずいぶんと粋な人だねぇ。僕と気が合うかもしれないからこんど連れてきてよ。会って話してみたいわ」

 「父さんが粋な人ねぇ・・・。ところで粋ってなんなのさ?」
 ちょっと酔いがまわってきて頭が回っていない僕は、素朴な疑問を吾郎君に丸投げしてみた。
 「なんなのさっていわれるくらいだから、定義は確かに難しい。わかりやすいものではないのは確かで、例えば今話したシャンパンは解りやすく誰もが知っている物じゃん、フランス製の高級品で、値段も数千円から数十万もしたりする」
 吾郎君の言葉に僕等はうなずいた。シャンパンが高級品であるということは、ほとんどの人が知っている。たしかにそうだ。
 「しかしこのパスティスだ。小日向は今日までこのお酒の存在すら知らなかった。しかし、今この一般的ではない飲み物を旨そうに飲んでいる」
 吾郎君の言葉に小日向君は大きくうなずくと、背筋を伸ばして前のめりになった。
 「わっかりやすい物を自意識過剰に自慢するんじゃなくて、わかりにくい物を自意識を無にして嗜むのが粋というものなんじゃないかと僕は思ってる」
 吾郎君はそう言って、自分の言葉にうなずくと、照れ笑いをした。
 ヤケドで指が三本しか使えないのに、恨み言が入った暗い曲を演奏せず、ただひたすら陽気な音楽を奏でつづけたこのおっさんは、相当な粋なおっさんだなと思いながら、ぼんやりとスピーカーからの音に耳を傾けて、グラスのグレン・フィデックをゴクリと飲んだ。
 


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