
キッシュが冷たくなるまえに 第79話 ブロカント
「ちょっといい物を見せてあげるよ」
吾郎君はそういってバックヤードに入って行った。なにやらゴソゴソ探し物をしている雰囲気が伝わってきて、しばらくすると手に何か黄色の物を持って戻ってきた。それは、注ぎ口と取っ手がついている黄色の陶磁器で、側面にフランス語の白文字でぺルノと書かれている。なつかしいアンティークのピッチャーだ。
「ぺルノのアンティークのピッチャーがどこかにあったと思ってさ、探してたんだ。多分親父か爺さんが手に入れた物だと思うけど、バックバーに置くには邪魔でさ。コロナで暇なときに、処分しようかどうか散々迷ったんだけど、捨てないでよかったよ」
吾郎君は自慢げにそのピッチャーを僕等に見せびらかすと、水道水できれいに洗って、ミネラルウォーターを満たして小日向君の前に置いた。
「ブロカントといって、フランスでは日曜日に路上で蚤の市が行われるんだけど、そういうところでパスティスの陶磁器のピッチャーがよく売られていたなぁ。小日向君ちょっと見せて?」
僕はそうつぶやくと、小日向君は手渡しでピッチャーを渡してくれた。ざらっとした素朴な手触りと、60年代や70年代のフランス映画にでてきそうな、カラフルで、ポップな感じがする。この陶磁器の手触りを楽しんでいたら、ふとワーホリ時代の風景がフラッシュバックしてきた。薄暗い鉛色の空の下、日曜日の午前中にアパルトマンの前の歩道にびっしりと露店が並んでいて、皿やカトラリー、絵画や洋服、古いレコードなどのアンティーク品が雑多に並べられていたのを思い出した。日本のお祭りのような雰囲気で、中にはいかにも業者で商売としてやってるなと思える見事な品揃えの店があるかと思えば、どう見ても近所のおばちゃん、おっちゃんがアンティークというよりガラクタまがいの、いらなくなった日常品を路上に並べて売っているのが共存していて面白い。老いも若きも、富める物も貧しい物も、いつもは殺気立ってせわしなく動き回っているパリ市民が、この時間と場所だけはゆったりとした時間の流れを楽しんでいるようで、その空間に身を置くのがたまらなく好きだった。
「僕が何年か前にパリに行った時、カフェで飲んだパスティスについてきたピッチャーはほとんどがガラス製で、それはそれでクールでいいんだけど、陶磁器は独特の暖かい雰囲気があっていいね。このバーではパスティスなんて年に数人くらいしか飲む人がいないからバックヤードにしまっておいたけど、時々つかってみようかな?」
吾郎くんはそう言って、氷とパスティスを入れたグラスとマドラーを小日向君の前にそっと置いた。
「このパスティスとやら、グラスに半分くらいしか入ってないんですけど?そのままストレート飲めばいいのか吾郎?」
けげんな表情で小日向君が食って掛かったが、吾郎君はクールな表情で、僕が持っているピッチャーに目くばせをした。
「そのピッチャーの水をグラスに注いで、水割りにして飲むのさ。水を入れてマドラーで回してごらん」
僕は手に取っていた陶器のピッチャーを小日向君に手渡すと、彼はためらいもなくピッチャーの水をグラスに注ぎ始めた。冷えたミネラルウォーターが氷に当たって、ピキピキと小さな音をたて始める。グラスの8割ほどに水を注いで、マドラーをクルクルと回し始めると、透明だったパスティスが徐々に白濁し始めて、グラスは薄いクリーム色の液体で満たされて、ハーブの香りが立ち上ってきた。
「なんか甘い香りがするね、なんか小学生のときに飲まされた咳止めシロップのようなといえばいいのか・・・」
小日向君はもう一度香りを嗅ぐと、訝しげに首を斜めに傾けたまま、難しい表情で固まってしまった。
「確かに表現するには難しい香りだよなぁ。原材料に十数種類のハーブを使っていて、そのなかにアニスやリコリスを使ってますって言われても、我々アジアの民には?だし。ほんとに日本の文化からかなり遠い酒としかいいようがない」
「たぶんラムがリキュールで世界一消費されていると思うんだけど、このパスティスはほぼフランス国内で消費されているだけだが、世界二位の消費量なんだぜって働いていたビストロのスーシェフに言われて無理やり飲まされたことがあるよ。ま、そのくらいフランスではポピュラーな酒で、ここで生活するんだったらこれが飲めて一人前ってことを彼は言いたかったんだとは思うけど・・・」
そのスーシェフはマルセイユ出身で、アゴ髭でショートカットのいかつくて、一見強面に見える男だったが、意外にもおしゃべり好きで、僕とはよくマルセイユ・オリンピックというサッカーチームの話で盛り上がっていた。いずれはマルセイユに帰ってビストロをしたと言っていたが、今はどこでどうしているのだろうか?
「その後翔太君はそのスーシェフに、パスティス味のキャンデーを毎日食べさせられて一応はパスティスになじむことができたって言ってたよね?」
「うん、最初は地獄のようだったけど、不思議とだんだん慣れてくるものでさ、今でも特に美味しいとは思わないけど、初めていく日本のフレンチレストランで食前酒にパスティスを頼むと、ウエイターがちょっとわかってる奴みたいな感じで接してくるときがあるので重宝してる」
「マジか、そいつはいいことを聞いた。俺もパスティスを飲めるようにするわ。飲めるようになった暁には・・・」
「女の子をフレンチに連れて行ってカッコつけたいってヨコシマなことを考えてるんだろ?中二病の病は深いなぁ・・・。とにかく小日向飲んでみて」
吾郎君に言われて小日向君はグラスを持ち上げて、一呼吸すると、意を決したように目をつぶってグラスを傾けた。喉ぼとけがゴクリと動いて、僕はどんな表情をするのかと固唾を飲んで見守っていたが、意外にもゴクゴクと飲んでいる。苦虫を潰したような表情の小日向君は徐々に柔らかい表情になってグラスをカウンターのコースターの上に置いた。
「俺、この味好きだわ、ぜんぜんいける」
僕と吾郎君は目が点になって小日向君を見つめていた。